徒然過去日記・2005年7月

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07/01 肉体のマイナー・チェンジ

2005/07/01 22:21
 腕を後ろに捻り上げて、同じ側の肩甲骨の出っ張りを掴めるか。わたしの場合、右腕なら余裕で出来るのだが、左腕はかなり厳しい。掴むというよりも、親指と人差し指でわずかに肩甲骨に触るのがやっとである。風呂に入って身体を洗う時(タオルで擦ると湿疹になってしまうので、わたしは必ず手で洗う)、そういえば左腕を下から後ろに回すのは苦手だなと自覚していたが、昨日の「パワー・ヨガ」のクラスで左右の違いがあまりにもあからさまになった。同じ腕なのに、右と左でこんなにも可動域が違うものなのだろうかと驚いてしまった。
 元々わたしの身体、昔かかりつけだった歯医者さん(なぜか整体に凝っている)に呆れられるくらいに歪んでいた。以前にもこの日記に書いたことがあるけれど、例えば背中の筋肉は左右で付き方が全然違うし、肩の高さも、足の甲の厚さも右と左でかなり違う。開脚して上体を伏せる柔軟体操でも、左側にはかなりぺったりと顔を膝に付けられるのだが、右側はだいぶ苦しい。パワー・ヨガやバレエ体操や、先日見学に行ったバレエ教室の先生たちによると、誰でもある程度はそういう差があるのだという。右利き・左利きでも柔軟性や筋力が左右で異なって来るため、完全に左右対称な状態にするには相当のトレーニングを積まなければならないらしい。

 それは判るのだが、にしてもこんなにわたしの左腕は固かったっけ、と思ってしまった。片腕を上から、もう片腕を下から伸ばし、背後で手を繋ぐということくらい、昔は両側の腕で出来ていた記憶がある。確かに左腕が下の場合はじゃっかん辛かったけれど、今ほどの左右差は絶対になかった。年齢と共に身体が固くなったこともあるだろうが、それではなぜ右腕の可動域は昔とそれほど変わっていないのか説明できない。
 手で触ってみると、右肩よりも左肩の方がじゃっかん前に突き出している。ほんの数mm、せいぜい1cmくらいの違いとはいえ、以前はこんな風ではなかった。もう10年以上前だが、母にくっついて「きくち体操」に通っていた時、指導の菊池和子さんに身体の歪みについてさんざん駄目出しを喰らったことがある。「この若さでこんなに歪んだ身体をしているなんて!」という訳だ。背中の筋肉の付き方や肩の高さなど細々とチェックをもらったのだが、その時も、左右の肩が前後に出ているかどうかは特に言われなかった。

 と言うことはこの違い、せいぜいこの10年かそこらの間に出て来た差だということになる。その間に身体を使う新しいことを始めたのって何かあったっけと考えて、1つだけ思い当たるフシがあった。ヴァイオリンである。
 ヴァイオリンを演奏する時、左肩と顎の左側で楽器を支える。肩当てはもちろんするけれど、少しでも楽器の安定性を高めようとすると、どうしても左肩を内側に入れる体勢を取る。さらに運指をするのに楽なので、左肘をぐっと内側に持って来る。試しに右肘を同じように内側に入れてみると、やはり左肘ほどは入らないのだった。
 そういえば以前師事していたお師匠さんも、身体の左右差について同じようなことを言っていた。この師匠は幼少時からヴァイオリンを習っていたために左右差はわたしよりももっと顕著で、肩の高さや前後の振れ方も見た目で判るくらいだった。なにせ肩当てなしで楽器を演奏することが出来るのである。

 なるほどな、ヴァイオリンが原因かと納得はしたものの、人体とはこんなに簡単に変わってしまうのかと少々驚いてしまった。ヴァイオリンを演奏と言っても、わたしの場合、真面目に毎日練習したのはせいぜい最初の3年間かそこらである。確かにその間は、多い時で1日3時間とか4時間とかの練習をこなしていた(もっと他にやるべきことがあるだろうという指摘は却下)。その後はいろいろ事情もあってサボり倒すようになってしまい、今ではせいぜい2、3ヶ月に1回、楽器ケースを開けるかどうかという堕落ぶりである。
 そのたった3年間で、わたしの左肩はぐにょんと前に飛び出て固まってしまったらしい。その後普通に生活したくらいでは、そのマイナー・チェンジは修復できなかったということになる。やはり意識的に変えた姿勢なので、元に戻すとしたら意識的な逆トレーニングが必要なのかもしれない。しかしサボり倒しているとは言え、やっぱりヴァイオリンを弾くのもまだまだ好きなので、楽器の安定性や運指のし易さは失いたくないなあとも思う。前に出したり後ろに回したりの訓練を両方みっちりやったらいいのだろうか。

 先週の『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd』に出て来た「ゴーストは脳殻ではなく、その人の顔の皺に宿る(大意)」というセリフを思い出した。ゴースト(それが何であるかはともかく措くとして)と肉体とは、やっぱり切っても切れない何か繋がりがあるのだろう。卑近な例を挙げれば「ダイエットに成功したら性格まで明るくなった」という数多の報告だろうか。個人的にも、アトピーの状態が良い時と悪い時でははっきりと人格が違ったりもする。
 少女時代は思い通りに調子を保ってくれない自分の身体が大嫌いで、いつもいつも「自分の魂は肉体という殻に閉じ込められている」と感じていた。SFに良く出て来る「精神生命体」になれたらどんなにいいだろうと思っていたものだ。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』第2話の主人公の気持ち、少しだけ判るなあ。

 少女時代に飛行機事故で全身を義体化した草薙素子は、リサイズを繰り返して今の身体に収まっている訳である。いくら高性能のボディといえども、使っているうちに馴れとか癖とかが出て来るものだろう。乗り換えるたびに随分苦労もしたのではないかと思う。あまりに大幅なボディの変更は、もしかしたら精神にもある程度の負担を強いるものなのかもしれない。理論的には男性用のボディだって選べるハズなのに取っ替え引っ換えしないのは、ひょっとしてそういう理由もあるのだろうかとちょっと思った。
 リサイズや乗り換えの度に必ずある程度起こるだろうと思える「ゴーストの揺らぎ」に耐えられなければ、全身サイボーグ化も出来ないということなのだろうか。アイデンティティ・クライシスなぞ屁のカッパという気がする。文字通り「鋼鉄の肉体には鋼鉄の魂が宿る」だったりして、と、阿呆なことをつらつらと考えてしまうのだった。




07/02 手の込んでいるもの

2005/07/02 16:42
 先日まで家人が必死になってエア・チェックしていたCATVの『サンダーバード』の再々…放送が終わり、同じ時間帯で今度は『キャプテン・スカーレット』が始まった。家人は朧気に観た記憶があるけれどストーリーは覚えていない、と言う。わたしは前回、やはりCATVで『サンダーバード』のセレクションを放送した時にカップリングされていた(のだったか?)のが初お目見えである。
 第1話で正義の味方・スペクトラムという組織に所属しているキャプテン・スカーレットが、異星人ミステロンに操られて危うく命を落としかけた際、どういう訳か不死身人間になってしまう。その後は不死身になったキャプテン・スカーレットがスペクトラムのメンバーとして大活躍する冒険を描く…というストーリーらしい。男性メンバーはブルーとかブラウンとか色の名前が付いていて、女性隊員は「ナントカ」エンジェルというコード・ネームを名乗る。「ナントカ」の部分はなぜか「コンチェルト」とか「シンフォニー」などの音楽関係用語なのが面白い。
 リーダーはホワイト大佐というシルヴァー・グレイのおじさんなのだが、どう見ても『裸の銃を持つ男』で主演しているレスリー・ニールセンにそっくりなのだった。

 1話と2話しかまだ観ていないのだが、メカの描写がとにかく凝っている。飛行機もクルマも格好いいし、ヘリコプターの操縦席などのディテールには目を瞠った。スペクトラムのメンバーが無線でやりとりする時の「S.I.G.(Spectrum in Greenの略で、異常なし・了解という意味らしい)」なども格好いい。なるほど制作には力が入っているんだな、やる気満々だな、という意気込みは良く伝わって来る。
 しかし、なのだ。どうにも展開のテンポは悪く、ストーリーはどことなく地味で暗く、そしてキャラクターには愛着が沸かない。『サンダーバード』の時よりもマリオネットの等身が上がり、7等身くらいになっているせいか、リアルさが微妙に気持ち悪くて可愛くないのだ。目鼻の大きさも実際の人間の顔に近く、目や口がデフォルメされていることもない。おかげでキャラたちが変に無表情に見えたりする。押井作品ならばその「無表情」が幾多の台詞以上の言葉を語っているものだが、残念ながら『キャプテン・スカーレット』ではそういうこともなかった。

 メカなどのディテールを作り込み過ぎて失敗してしまうという典型例のように思える。飛行機などのメカそのものが好きな人にはこたえられないかもしれないが、個人的にはもうちょっと脚本とかキャラの魅力にもポイントを置いて欲しかった。例として挙げるのに適当かどうか判らないが、『スチーム・ボーイ』を観て感じたハズレ気分と似たような印象である。
 そもそも人形劇で、人形のリアルさを追求するのもどうかと思う。中途半端に人間に近い人形には、生身の人間はむしろ「薄気味悪さ」を感じるものなのではないだろうか。どこかに出て来たタチコマたちの台詞にあったように、ロボットが下手に人間っぽく振舞うことには敵意を覚えるのかもしれない。見分けが付かないくらい精巧なロボットならばまた違うだろうが。
 個人的な考えだが、マリオネットのリアルさを売りにするような人形劇ならば、人間の俳優さんたちが演じてしまった方が格好いいのではないかと思う。

 テンポ感の悪さを少しでも補おうというのか、場面転換などのタイミングでたびたび「タッタラタッター」という感じのジングルが入るのだが、意図に反してそれが却ってテンポ感を損なっている辺りも気の毒である。そして見せ場になると登場する一種のファンファーレ、どう聴いてもドラえもんが不思議グッズを取り出す時のアレにそっくりなのに笑ってしまった。
 今日はドヴォ組の面子が集まって練習会があり、それに備えて朝から家中の整理整頓と掃除に大わらわだった。家人とその辺に散らかっているものを片付けながら録画を観ていたのだが、わたしはファンファーレが鳴る度に心の中で密かに「ドラえもん…」と呟いていた。観終わった後、どちらからともなく「微妙だよねえ」という感想を話し合っていた時、家人もやっぱりアレで「ドラえもん」を思い出していたということが判明したのだった。
 時系列で言えば『キャプテン・スカーレット』の本国放送が1968年から、『ドラえもん』のTV版放送が1973年からである。むしろドラちゃんの方が後発なのだが、日本人の耳にはやっぱりどうも…。

 手が込んでいればいるほど喜ばれるかというとそうでもない、というのは料理も同じらしい。
 バレエ教室の見学に行った日、予め作っておく晩御飯は煮物がいいだろうと、久し振りに「手羽先の黒酢煮」を作った。中身の手羽先を食べてしまった後に残る甘酸っぱい煮汁、捨ててしまうのはもったいないなと思い、ちょっと工夫して翌晩、かに玉の甘酢あんに作り変えてみたのだった。具にはかに缶をほぐしたものと千切りのタケノコ、黒酢の煮汁は水溶き片栗粉でとろみを付け、彩りにインゲンマメの小口切りを漂わせる。卵の黄色とインゲンマメの緑、黒酢あんの茶色が良く映えて、味もなかなかの出来栄えだったと思う。
 ところが家人のコメントは「味はまあいいけど、卵料理ってメイン・ディッシュじゃないじゃん…」と不満顔である。普段からしょっちゅう手の込んだ料理を食べたい食べたいと言っていたのに、黒酢あんだけで2日がかり(残り物の再利用だが)のかに玉では物足りないらしい。

 わたしが子供の頃は、晩御飯がかに玉の日は大御馳走だったものだが、家人の感覚では御馳走とはやっぱり「どーんと肉!」ということなのだそうだ。かに玉の翌晩に出したスペアリブのオーヴン焼きの方が、家人としてはお好みらしい。スペアリブは最寄のスーパーで「夕刻スペシャル! 味付けスペアリブ100g100円!」というお手頃価格のを買って来て、オーヴンに放り込んで焼いただけのものである。手羽先のだしが良く出ている黒酢あん&絶妙の火加減に苦労したかに玉の方が、よっぽど手が込んでいたのに。
 不条理なのだ(ぷんすか)。




07/03 ボーナス・サンデー

2005/07/03 22:12
 だそうな今日、道路はどこもかしこも大混雑で、時々出掛ける先の大型スーパーでは空きスペースを探して駐車場をぐるぐる回る羽目に陥った。普段から日曜日には混み合う店ではあるけれど、今日ほど徹底的に満車状態だったのは滅多に見ないことである。ボーナス後ということで買い物客が増えたためにこれだけ混んだのであれば、湿りっぱなしの景気も多少は上向き気配なのだろうか。個人的な感覚としてはまだまだなのだけれど。
 昼過ぎに都議選の投票に出掛け、ついでに買い物にも行って帰宅後、隣家の義父母と一緒に「あけぼの」のずんだ大福を茶菓子にお茶タイム。この数年独り暮らしをしていた義弟君が、そのマイ・ペースな私生活の故に家人&義父母の大顰蹙を買ってしまい、いろいろ事情も重なって近々戻って来る。その引越しの算段と、来週の義父の誕生日に食事でもしようかという相談が茶飲み話だった。

 義母は最近どうも身体の調子が良くないらしく、特に足腰が痛んで結構辛いようである。床下収納庫から物を出し入れした後で立ち上がる時などが特に駄目だと零している。元々これと言った運動をする習慣がないのだが、やはり相当に足腰の筋肉が弱って来てしまっているようである。もし良かったら、わたしや家人が入会しているスポーツ・クラブでトレーニングをしてみたらどうだろうと提案した。
 もちろん事前に医師の診断を受けて、ちゃんと適切な運動をしても良いと確かめてからでないと危ないが、ああいうスポーツ・クラブには高齢者のメンバーも非常に多い。以前TVで見たトピックでは、自治体によっては高齢者対象の筋力トレーニングを奨励しているところもあるという。転倒時の骨折防止とか、足腰の弱りによる寝たきりの防止にかなりの効果があるらしい。コツは「これはいけない」と思うほど弱る前に、少しずつでいいからトレーニングしておくこと、だという。

 ピアノを弾くのが大好きな義母なので、もしも足腰が利かなくなってピアノの前に座れなくなったら辛いだろう。足腰の筋トレは自然と上半身のバランスも整えるので、ピアノを弾く上でもプラス要素が多いと思う。少しでも長くピアノを弾いてもらえたらいいなと思い、スポーツ・クラブに誘ってみたのだった。運動の習慣がなかったところにいきなり張り切ったら長続きしないだろうから、例えばストレッチのクラスやヨガのクラスをぽつぽつ取ってみるのがいいと思う。
 とはいえ、肉体の衰えについてはわたしもうかうかしていられないのである。昨日、家人のアンサンブル仲間のドヴォルザーク組で集まって練習をした。いつもの通り、練習後はメンバーで連れ立って晩御飯を食べに行った。その時の雑談で、中断して久しいわたしの「ばよりん」についての話題が出た。

 今までにも何度かその話をした結果、仲間内での分析では、わたしは「自分独りの努力では超えられない壁にぶつかって途方に暮れている状態」だろう、ということになっている。1000本ボウイングとか無限スケール&アルペジオとか延々シュラディックとか、わたしは元々、やっているうちに脳内麻薬が分泌されるような体育会系の練習が大好きだった。それはつまり、その先に進もうにもどうしたら良いのか判らない、という状態でもある。やりたい曲があって出したい音もあって、それなのに独りでは手も足も出ない、「音楽としての成立のさせ方」が丸っきり判らない。
 師匠についている間からその気配はあったのだが、諸般の事情により師匠なしっ子になってしまってからはより顕著になった。独りでじたばたしても埒が開かないし、そんな中でボウイングやスケール「だけ」やっているのもさすがに虚しい。ヘタレなのでそうするとついついサボり倒すようになって今に至る。自分でも、オノレのそういう心理には思い当たる点がある。

 好きなことならばどこまでも凝り性なので、ブレイク・スルーのきっかけさえあれば、また家人の顰蹙を買うくらいの練習の虫に戻るだろうなという予感はある。ただしこればっかりは独学でどうにかなることではなく、良い先生の導きが不可欠である。残念ながら今のところ、これというお師匠のアテがないままだった。
 ドヴォ組メンバーの先生で、わたしもお目にかかったことがある方がお1人いらっしゃる。大変面白い方で、先生も「まとりさんは弟子として面白いかもしれない」とコメントを下さったことがある。ぜひともお願いしたかったのだが、既にスケジュールは満杯でわたしの割り込む隙がない。教室も立川近辺にしかないらしい。ウチから立川までは、どんなに急いでも1時間20分はかかってしまう。少なくとも週に1回程度レッスンに通うとしたら、往復3時間近くの教室は無理である。
 そもそもレッスンのお月謝をどう捻り出すかも大問題だったりする(汗)。

 ばよりん演奏について諦めの付く心境にはまだまだ全然至っていないし、叶うことならば毎日2時間でも3時間でも熱中して練習できるようなモティヴェーションを取り戻したい。とは言え学生時代とは違って、今はやらなければならないことも山積みである。どう遣り繰りしても立川へ通える時間は出て来ない。こういう時つくづく、もっと若い時にばよりんを習い始めるチャンスがあったらなあ、とも思ったりする。せめて高校の室内楽部に入部した時、学校の備品がいかにショボかろうが後々マイ楽器を欲しくなる懸念があろうが、ばよりんを選ぶんだったなあ。今更悔やんでも遅すぎるけれど。
 ウチから通える範囲にあって、お月謝がそこそこリーズナブルで、きちんと大人初心者に教えた経験のある先生。3つ目の条件は簡単なようで結構厳しいものでもある。今まではぼんやりと「縁があればそういう先生にも巡り合えるだろう」と思っていたのだが、家人や友人たちは年齢制限が迫っているのではないか、と心配する。どんなに頑張っても飲み込みの悪くなる歳、家人の意見によるとそれは「オーヴァー40」なのだそうだ。40歳、他にもタイム・リミットっぽい設定がある歳である。

 別に今更バリバリ弾けるようになりたいとは思わない。ただしばよりんについて「見果てぬ夢」で済ませるには、忘れ捨てるには、どうにも未練たらたらで少々しんどい。もう2年、もう10年…という歌詞があるのは中島みゆきさんの「歌姫」だけれど、あと10年後にはさすがに諦めの付くいろいろもあるだろう。いっそのことさっさと時間切れ年齢を迎えてしまったら楽になれるのだろうか。そんなことも時々思うのだった。




07/04 夏の元気なご挨拶

2005/07/04 16:06
 別にサラダ油を贈る訳ではないが、中元・歳暮のお届け物を続けている先が1軒だけある。研究室時代と、勤務先の某メーカーから派遣研究員として出戻った時にお世話になった「生物化学研究室」のS教授である。大学2年生の時だったか、この先生の酵素化学の講義中、初めて「RNAワールド」というものの存在を知った。アメリカのコロラド大学のチェックとイェール大学のアルトマンがRNA触媒(リボザイム)発見の業績により1989年度ノーベル化学賞を受賞したのだが、そのリボザイムの働きの延長線上に、遺伝情報の担い手と自己複製能力を兼ね備えた高分子が生命誕生のキイとなる「RNAワールド」存在の可能性がある…という物語だった。
 ちょっとでも生物化学に興味を持った人ならば、「DNAが先かタンパク質が先か」という、有名な卵ニワトリ論争めいたジレンマを聞いたことがあるだろう。遺伝情報を司るのはDNAだが、DNAの情報が読み出されるには酵素(タンパク質)が必要であり、酵素を作るにはDNAが必要だ…と、大雑把に言えばそんなような矛盾である。リボザイムが遺伝情報源と酵素の役割を併せ持つのであれば、DNA-タンパク系が確立する以前に、RNAが全部やってた世界があったのではないか? という可能性が出て来る。これが「RNAワールド」である。

 希望する研究テーマが「生命の起源」(ずいぶん大きく出たものだ)だった当時のわたしにとって、これは何より魅力的な話だった。リボザイムとRNAワールドの話を聞きたさに、わたしはS先生(当時は助教授だった)の研究室まで勇気を振り絞って遊びに行き、当然ながら4年生時にはこの生物化学研究室に所属することになった。
 残念ながら生物化学研究室では「生命の起源」をテーマとして採用していなかったので、もう1人の担当教授のテーマの1つである「ネフリトジェノサイド」を卒論に選んだのだが、これが大変な難物であった。行き詰まった上にやる気を失くし、ついでに体調もメチャクチャになった。おかげで自分に研究者としての適性が足りないという見極めが付いたのは幸いだが、これはまた別の話である。

 ともかくS先生には通算5〜6年はお世話になりっぱなしだった。マスターを修了した後に、どうやらこうやら某メーカーに転がり込むことができたのも、S先生のコネのおかげだった。その某メーカーでは、正式に研究所勤務を始めたと思ったらあっという間に過労で倒れてしまい、2ヶ月も休職することになった。では多少負担の少なそうな基礎研究派遣員をやらせるか、ということでS先生の元に出戻り、勝手知ったる大学であるのをいいことに楽器持参で通学(通勤?)するという給料泥棒なことをやっていたのだった。
 コネ採用した学生がとんでもなく使えないヤツだったということで、わたしはS先生の顔をさぞかしこっぴどく潰してしまったのだろうなあ、と申し訳なく思っている。その負い目を除外しても、やっぱり大学時代に一番お世話になったのはこの先生なので、中元・歳暮と年賀状のやり取りくらいは…と思って続けている。

 実際の品物は、S先生向けというよりは研究室の学生さんたち向けである。理系大学の研究室に居るような学生というのは、よっぽどの例外を除いては概ねビンボーである。わたしも例外ではなく、毎月奨学金の振り込まれる直前には金が尽きて、「ううむあと1週間、残金500円でどうやって乗り切ったらいいだろうか」と悩むのが常だった。そういう人間に取って、先輩たちから贈られて来る御中元や御歳暮の品々はまさに天の恵みである。
 S先生を始めとする研究室のメンバーに一番喜ばれる贈り物は、おそらく缶ビールなのではないかと思う。ただしそれだとお腹の足しにならないし、飲めない学生さんには申し訳ないことになる。いろいろ考えて、夏には果汁100%の缶ジュースの詰め合わせ、冬には3時のおやつの時間に食べられるようなクッキーやパウンド・ケーキの詰め合わせを選ぶことにした。毎年同じものでは面白くないので、例えば今年の御中元には、缶ジュースではなく、「ヴァニラ・シューアイス28個入り」なるものを選んだりもしている。
 最重要ポイントは質と数をどうやってすり合わせるかという辺り。どんなに美味しいものでも少ししか入っていないのでは、当たらない学生さんが出てしまうからである。

 御中元・御歳暮の付け届けを始めたのがいつだったかもう覚えていないのだが、結婚して今年が10年目なので、少なくとも10年間は続けていることになる。その間1、2回は病気をしていたり忘れてしまっていたり(←論外)で飛ばしたことがあるけれど、後はだいたい「夏・ジュース、冬・お菓子」を守っている。食べた学生さんたちから、研究室の集合写真&寄せ書き付き御礼状をいただくのが楽しみである。
 研究者もリタイアしてしまったし、某メーカーも退職してしまっているので、今のわたしと生物化学研究室の間にはOGと出身研究室という関わりしか残っていない。あんまり長々と付け届けを続けるのも変だろうかと思うけれど、じゃあいつを目処に止めればいいのかというのも判らない。去年は来たのに今年は来ないなあ、と、もしもS先生が寂しくお思いになったら申し訳ない。
 S先生も今年で(おそらく)62歳におなりである。集合写真の中のお姿は相変わらず若々しいままだが、あと3年経ったらなんともう定年退官なさるお歳なのだ。出会ったのはまだ先生が40代の頃、月日の経つのは本当になんと早いのだろう。

 そんな訳で、S先生に宛てて贈り物を出来るのもあと数回。予算内でどういう品物を選ぶかという残り少ないチャンスを大事にしようと思うのだった。年末は御歳暮に何を贈ろうかなあ(気が早過ぎ)。




07/05 色気は食い気に勝てるか?

2005/07/05 17:03
 昨日からついについに、ちゃんとしたバレエ教室にも通い始めてしまったのだった。ウチから電車で3つ目の駅北口から徒歩4分というなかなかの立地で、先週体験レッスンに行った時は5人だった生徒さんは、昨日はまた増えていた。わたしを入れて8人である。割に立ち上げたばかりの教室だが、着々とシステムが整いつつあるらしい。
 先週は更衣室を使ったのだが、誰も気にせず着替えているようなので、今週はレッスン場でジーパンとTシャツを脱いでオワリにする。予め家を出る前に、その下にレオタードとタイツを着ておいちゃえば簡単である。レッスンが終わったらまたその上にジーパンとシャツを着てしまえばいい。汗みどろなので多少気持ち悪いが、シャワー室がないので仕方がない。冬場は身体を冷やさないように気をつけなければなるまいが。

 体験レッスンの時にも言われたのだが(まあ8割以上がお世辞だと思う)、ド素人にしては脚の筋力もあるし身体も柔らかいらしい。プリエやタンジュ、ロンデジャンなどの専門用語(?)も、とりあえず一通りはアタマに入っている。半年地道に通っているバレエ体操の成果が、一応は現れていると見える。ただしレオタード姿になった時のぷよぷよ感、とりわけ脚の太さなんかは、バレエ体操のクラスと同じである。つまりわたし以外の生徒さんはみんなガゼルのような細い脚をしているのだ。この太ももマジで何とかならんのだろうか(顰蹙)。
 ともあれこれで、月曜日はバレエ教室、木曜日はバレエ体操(@スポーツ・クラブ)と、週に2回のレッスンを確保できた。身体を作るには最低週2回はレッスンしないとどうにもならないので、月・木と通う先が違って多少非効率的だけれど、当面良しとしなければならない。本当はスポーツ・クラブで月曜日あたりにもう1コマ、「バレエ」というクラスがあると申し分なかったのだが、木曜日の参加者で何回もリクエスト・カードを出しているのにちっとも反映されない。「バレエ」と銘打ったクラスを設けるとすると、外部からちゃんとした先生を呼んで来る必要があるとかないとかの事情らしい。別にわたしらは、クラブのスタッフが兼務している今の先生に教わるので充分なのだが…。

 万事文句ナシかというとそうでもない。問題は月曜日のレッスンが18:00〜19:30という時間帯に設定されていることだった。出掛ける前に晩御飯の支度を全部してあるのだが、帰りはどんなに急いでも20:15くらいになってしまう。いずれウチの最寄駅に急行電車が停まるようになればもう数分くらいは縮められるのだが、どうも待ち合わせ時間でロスが出るのだった。家人の帰宅時間が19:30くらいなので(早い時はもっと早い)、晩御飯スタートの時間がいつもより1時間ばかり遅れてしまう。
 その辺り、先週了解を取ったつもりでいたのだが、どうも上手く伝わっていなかったらしい。毎週月曜日がそうだなんて聞いてなかったぞ! と、家人はだいぶ御冠になってしまった。こちらは初レッスンのわくわく気分もすっ飛んでパニックである。仕事で疲れて、お腹を空かせて帰って来る家人を待たせるのは確かに申し訳ないけれど、久し振りに掴んだ「チャレンジする対象」を、ここでむざむざ諦める訳には行かなかった。必死の説得でようやく「納得できないけれど始めちゃったんだから仕方ない」と了解を取ることができた。
 ここまで食下がって始めたことだと、今後どうあってもサボる訳には行かなくなる。日常業務にもしばらくは気合が入ることだろう。こちらはいつまでその決心が継続するか知れたものではないのだが。

 バレエ教室の他の生徒さんのうち、1人抜きん出て上手い人がいらした。先週の体験レッスンの時はお休みだった人で、バー・レッスンでもセンターに出た後でも、他のメンバーより明らかに身のこなしが洗練されている。この人の真似をしよう…と思って必死に観察していた。真似しようとしたところで出来る訳でもないが、意識しないよりは意識した方が良いに決まっている。
 レッスン後、他の生徒さんたちが帰り支度を始める中、この方だけはトウ・シューズに履き替えていた。なるほどやはり中級以上の人は追加レッスンもするのだろう。床を踏むとパカパカと馬の足音のような音がするトウ・シューズ、できればやっぱり履けるようになってみたいな、と思う。幼稚園から小学校2年生くらいまで習っていたバレエ、最近思い出した最後の記憶は「来週からトウ・シューズを履いてみましょうね」という先生の言葉だった。その後引っ越したドサクサに紛れてそれっきりになってしまったのだが、あの時の期待感は朧気ながら印象的である。
 わたしがこれからどんなに一生懸命やっても、トウ・シューズを履いて踊れるようにはなるまいし、トウで立てたからさあどうする、というものでもない。ううむやっぱりせめて10代の時に再開していればなあ…。

 そんなこんなで妙に張り合いのある今日この頃なのだった。じゃっかんの心配事はレッスン代をどうやって捻出するかという点である。化粧品も衣装代もほとんどゼロなので削るにも削れない。稼ぐ方は順調どころではないので宛てにする訳にも行かない。書籍費も削れない。残るは最近ハマっていたお取り寄せのスウィーツやチーズを諦める、と言う一手である。半生レア・チーズちゃんやゴルゴンゾーラ・ピカンテ君、愛しの美味なる者たちよさらば(涙)。せめて家人の好物がナチュラル・チーズだったらまだしもなのだが、生憎「あんな臭いチーズ嫌だ」だそうなので、割り勘で買うこともできないのだ。
 そんな哀しい決意をしていた所にオーダーチーズ・ドットコムさんからまたメルマガが届いた。以前食べてみたらメチャメチャ美味しかった「カルピネッロ」の限定販売のお知らせである。パルミジャーノ・レッジャーノの中心部だけをミルククリームに溶かしたスプレッド・タイプのチーズなのだが、薄焼きトーストに塗って食べると踊るほどに美味い。「チーズの王様」のコクと風味が何より堪らないのである。

 激しく激しくココロ惹かれたものの、やっぱりここは自重せねばなるまい。何せこのチーズ、250g入りパックが1個1400円もするのである。他の通販サイトを探しても、どんなに安くても1200円が底値。プラス送料ということだとかなりお高く付いてしまう。
 市販のものでは小○井から「塗るチーズ」というのが出ている。こちらは100g294円程度なのでまだマシであるが、いかんせん味と香りは「カルピネッロ」には遠く及ばない。せめて最寄のスーパーで「カルピネッロ」を扱ってくれたら送料は気にせずに済むのだが。
 今回オーダーチーズ・ドットコムさんでの「カルピネッロ」販売期間は7日まで。何とかそれまでクリックする手を押し留めることが出来るように頑張らねばならないのだった。とほほ。




07/06 190.8メガカロリーのパフェ

2005/07/06 17:57
 kcalではない、メガなのである。一般的表記(?)で書くと190800Cal。何の話かというと、家人のお気に入りサイト「peach's page」さんで見た、世界一巨大なパフェのことだったりする。このサイトでは過去に「ジャンボカツ丼伝説倍盛編」や「10万円オムライス編」などのチャレンジ報告やイヴェントも行なわれていた。超巨大パフェにしても今回が初めてではなく、昨年は仮名「アンドロメダパフェ」を作って食べるオフが決行されていたらしい。
 ちなみに「ジャンボカツ丼倍盛」というのは、4合のご飯の上に卵でとじたカツ3枚分が乗っかっている、というメニューである。これで1000円、相当に高度なチャレンジ・メニューだと思う。「10万円オムライス」は1斗(つまり10升=100合≒15kg)分のお米を使って作ったチキンライスに、LLサイズの卵300個分の半熟卵焼きをかぶせ、ボウル1杯のケチャップをかけてあるシロモノ。鶏の唐揚げと梅くらげが添えてあるらしい。延べ150人分の超巨大オムライスである。
 「アンドロメダパフェ」は5L入りアイス33個分に、かき氷、ホイップ・クリーム、スイカやパインやオレンジ、さくらんぼなどのフルーツを、「アイスの量に見合う分だけ」デコレートしたもの。なぜかおはぎや梅干も混ざっていたらしい。

 昨年の8月28日に高知県は南国市の「ゆず庵」で開催されたという「世界一凄いパフェ」オフには、総勢102人もの参加者が全国から馳せ参じた。高さ2m、重量165kg、お値段は12万円の超巨大パフェ、102人がかりでも流石に完食はできなかったらしい。そうだろうなあ。1人当たり1.5kg以上のアイス(プラス果物その他)など、どう頑張っても食べ切れるものではない。
 「ゆず庵」の社長さんとオフ主催者さんは完食出来なかったことを悔しくお思いになったのか、そのリヴェンジが今年行なわれたらしい。最終的には5Lアイス26本、2Lアイスが27本、170kg以上を食べ尽くすオフとなったようである。リヴェンジに備えて参加者を倍増させていたので途中でアイスがなくなりそうになり、5Lアイス5本を追加したという顛末が記事中にあった。ということで出来上がりは高さ1m60cm、154kgのパフェ、ざっと1000人分ということである。ちなみに定価は18万円、去年よりも高価くなっている。
 恐ろしいのはこのパフェ、「ゆず庵」の常設メニューなのだそうだ。ただし2日前までに予約しなければならないらしいが。

 参加者の「ビッグリー」さんのサイトでもこのオフのレポートがアップされている。前回も参加なさったこの方が、リヴェンジのために持っていらした品々がまた笑い(と呆然感)を誘う。その品々とは1)熱いお茶 2)蕗の佃煮 3)貼るタイプの携帯カイロ 4)正露丸(奥の手) の4つ。確かに1000人分のパフェを200人かそこらで食べ尽くそうとしたら、お腹も冷えるし口の中も甘ったるくてどうしようもなくなるに違いない。
 それにしても、夏場に使い捨てカイロで暖を取ってまでアイスを食べるというのも凄い話である。「お腹一杯アイスクリームを食べてみたい!」という気持ちは判らなくもないのだが…。

 実際にわたしが目撃した訳でもなく、伝聞のみでは到底このモンスターの迫力を伝え切ることなど出来はしない。アップされた画像を見るだけでも呆れ返るような巨大さなので、まずは「peach's page」さんと「ビッグリー」さんのレポートをご覧になることをお勧めいたします。開催地がもうちょっと近場であれば、おそらく家人は「僕行ってみようかな」と言い出すに違いないと思うのであった。わたしは…そうだなあ、1度に3〜4人分のアイスを食べたら、間違いなくお腹壊すだろうし…(でも興味津々ではある)。
 ちなみにこの超巨大パフェ(今年から「アンドロメダパフェ」から「ゆず庵パフェ」に改名されたらしい)が盛り付けられる器もそんじょそこらのお皿ではなく、直径1m以上はありそうな有田焼の大皿(700万円也)だった。「10万円オムライス」も昨年の「アンドロメダパフェ」もお世話になったこの大皿、重量なんと82kg。成人男性が3人がかりでないと、お皿1枚運べないということになる。感覚的には既に『ガリヴァー旅行記』な気分である。

 結局、256人(カウント出来た人数なので実際はこれ以上)の参加者が寄ってたかってこの超巨大パフェに挑み、見事リヴェンジは成功したということである。パチパチ。ちなみにこのイヴェント、日テレから取材が来ていたらしい。夕方の「ニュースプラスワン」という関東ローカルな番組で7月中旬に放映されるそうで、レポーターは「TVチャンピオン」でもお馴染みの彦摩呂さん。このイヴェントに目を付けるとは流石、キワモノ大好きな日テレだけあると笑ってしまった。
 残念ながら主催者さんのお住まい・高知県では「ニュースプラスワン」は観られない。関東圏の人間に録画したものを提供してもらえないかという呼び掛けがなされていた。放送日が未定なので見逃す恐れもあるが、わたしも家人もメチャクチャ楽しみにしているので、もし正確な放送日が判明したら是非とも録画しちゃおう、と思っている。

 この超巨大パフェ・イヴェント、既に来年へのリクエストも続々と届いているらしい。来年は一体どういうパフェが完成するのか、レポートを読むのが今から楽しみである。それにしてもこのパフェ、こんなにでっかいのはそうそうないような気がする。ギネス・ブックに申請してみたら通ってしまうのではないだろうか。
 ちなみに今日のタイトルは、主催者さんが概算したパフェの熱量(ただしアイスの分だけ)。実際はフルーツやらホイップ・クリームやらが載っているのでもっと凄いことになっているハズである。190.8メガカロリーを消費しようと思ったら、体重45kgの女性が160m/分ペースを保ち、18日と18時間走り続けてやっとなくなる計算だそうだ。その期間はもちろん飲まず喰わずだし、当然眠っているヒマもない。消費し切る前に死んじゃうような気がする…(怖)。




07/07 口は禍の元?

2005/07/07 22:24
 昨日、大方の予想をぶっ飛ばしてロンドンが、2012年のオリンピック開催地に決定した。思いがけない喜びに沸くロンドン市内は、今日は一転して同時多発テロに見舞われ大混乱である。亡くなった方が20人、怪我した人は90人以上という発表が出されているらしい。米国同時多発テロ以来、狙われているのではないかと言われ続けつつもテロを未然に防いで来たイギリスで、この時期にロンドンの中心部をやられるというのは当局としても痛恨事だろう。
 主な警戒はグレンイーグルズ・サミットのためにスコットランドに向いていたということなのだろうか。あちらでも抗議行動が大変な騒ぎになっているようなので、その対応に追われた一瞬の隙を狙われてしまったように見える。リヴァプール・ストリート駅とオールドゲイト駅と言えば、メトロポリタン・ラインかサークル・ラインのどっちかが通っていたような記憶がある。15年以上前の訪問経験しかないのでうろ覚えだが、ベイカー・ストリート駅に行くのにどっちに乗ろうか迷ったのだった。

 よりによってシティのど真ん中、ロンドンの象徴と言うべき地下鉄とダブル・デッカーがやられたというのは、地元の人々のショックも大きいだろうと思う。当初の予想より死傷者が少なければいいと祈っている。
 他に気を取られることがある時に、全然違った場所を攻撃するというのは、かなり基本的な戦略と言えるかもしれない。そういう意味では「油断大敵」の事件なのだろう。今後かなりの問題になるのではないかと思う。ともあれ、被害に遭った方々へお悔やみとお見舞いの気持ちを伝えたい。大好きなロンドンでこんな悲惨な事件が起こるなんて、わたしも結構ショックである。

 油断大敵と言えば、最有力候補と言われていたパリが開催地に選ばれなかったのも「今度こそたぶん大丈夫だろう」という気の緩みがあったのだろうか、と思う。同時多発テロと夏季五輪開催地選びを並べて語るのも不謹慎な気がするが、昨日家人から聞いた話が印象的だったのだ。つまり、シンガポールで総会が開かれる3日前、カリーニングラードでプーチン露大統領やシュレーダー独首相と会談したシラク仏大統領が、「英国の料理は不味過ぎる。料理の不味い国は信用できない。ハンバーガーも問題外(大意)」というジョーク(か本気か判らないが)を飛ばして大問題になった、というアレである。
 下手すると外交問題に発展するかもと言われていたらしいが、影響は五輪開催地の選挙にも出てしまったのかもしれない。確かにああいうジョークは聞いていて愉快なものではなく、イギリスにもアメリカにも関係ない人たちの印象さえも悪くしてしまった可能性があるだろう。
 4回行なわれた投票でまず最初に落ちたのがモスクワ。2回目の投票ではモスクワへ行っていた分がそっくりマドリッドへ流れたようである。その次には、2回目で落ちたニューヨークへの分が大部分ロンドンへ流れ、最終投票では3回目で落ちたマドリッドへの票がロンドン・パリへほぼ半々に分かれた。4票差の敗北はかなり際どい勝負だけれど、良く見直してみるとパリは、4回の投票いずれでも1位になったことがない。シラク大統領の「舌禍」の他にも、もしかしたら招致合戦の追い込みが足りなかったのかもしれない。

 先日、朝のニュースでは「パリの町並みに石畳が蘇る」などというトピックを見たのだが、パリの人たちはオリンピック招致に本当に一生懸命だった。自動車の普及に伴って消えてしまった石畳を、オリンピックを機に地域限定で復活させるという取り組みだった。いかにも芸術の都らしく、要所要所の石には地元のアーティストが絵を描いたりしていて、なかなか素敵な光景であった。招致計画もコンパクトで優秀だということだったし、これはパリで決まりかな…と、その時は視聴者のわたしも思ったものである。
 応援演説で最後の詰めを怠ったことと、あとはやっぱりあの問題発言が効いたのだとすると、今回の落選はシラク大統領の大チョンボということかもしれない。フランス語圏の人に向けてフランス語でも招致のためのスピーチを行ない好評だったというブレア英首相に比べると、やはりちょっと霞んでしまう。何となくイソップ童話の『アリとキリギリス』を思い出す…と言ったら、フランス人に怒られてしまうだろうか。

 それにしてもイギリスやアメリカの料理が不味いというのは本当に本当なのだろうか。ピューリタンの影響か、両方とも「美食に現を抜かすのはよろしくない」という風潮があるのは確かかもしれないが。
 イギリスには1回しか行ったことはないし、アメリカに至っては足を踏み入れたことさえないので何とも言えないのだが、少なくともB&Bで食べさせてもらった英国式朝御飯はそれほど不味くもなかったよなあ、と思ったりもする。「イギリスで美味い食事をしたかったら3食お茶の時間にすべきだ」という言葉の通り、アフタヌーン・ティーはとっても豪華で美味しかったし。
 シャーロック・ホームズものに出て来た「牛の骨髄をとろとろになるまで煮込んだものを薄焼きトーストに載せて食べる」メニューなんか、子供心に激しくそそられたものだった。今ではBSEが怖いので実現不可能な料理である。『大草原の小さな家』シリーズに出て来たご飯は美味しそうだったし、イギリスもアメリカも、家庭料理はやっぱりそれなりに美味しいのではないかと思っているのだが…。




07/08 そして油断大敵

2005/07/08 19:17
 ロンドンの同時多発テロでは、今のところ死者37人、負傷者700人以上という大惨事になってしまった。当局はアル・カーイダ系の国際テロ集団の犯行だと推定しているらしい。真犯人がどこのどういう組織なのか判らないが、あれだけの事件はかなり綿密な計画を立てないと実行不可能だろうと思う。犠牲者の方々のためにも、早く落ち着いたロンドンを取り戻して欲しい。亡くなった方には心からのお悔やみを捧げたい。
 ガーディアン紙によれば、英対外情報部(MI6)や国家保安部(MI5)などで構成される統合テロ分析センターが、国際テロ組織によるテロの警戒レヴェルを引き下げていた、という。ガーディアンと言えば一応は高級紙ということになっているので、無駄にセンセーショナルな記事として笑い飛ばす訳にも行かない。ニューヨークの同時多発テロの時はCIAとFBIの大チョンボとか連携不足とかいろいろ言われていたが、今回もたぶんそういう責任問題が発生するのだろう。やっぱり油断大敵、ということかもしれない。

 本当にこれがアル・カーイダ系の国際テロ集団による計画的犯行だとすると、アメリカ追従の日本なんかもヤバいのではないか、と思ったりする。ニューヨークではWTC、ロンドンでは地下鉄とダブル・デッカー。両方ともその象徴的なものが狙われているということは、東京だったら差し詰め秋葉原と新幹線だろうか。象徴的でなおかつダメージの大きいところは他にもあるだろうし、良く良く気をつけなければならないと思う。それともあちらさんに取っては日本なぞ興味ないのだろうか。
 シラク仏大統領もそうそうにお見舞いメッセージを出したとかまだ出してないとか聞くが、こういう時に先日の失言を取り戻す努力をしておけばいいのに、と思う。フランスはスタンス的に、アル・カーイダ系テロ組織の標的にはならないと楽観しているのだろうか。とすればここで、あまりにも親密な対応をし過ぎると薮蛇なのだろうか。歴史的にもイギリスとフランスはあんまり仲が良かった訳ではなさそうだから、弔意を表しつつ静観という辺りが妥当なのかもしれない。お隣の国なんだからもうちょっと仲良くしとけばいいのに。

 「イギリスの料理は不味い」ジョークの失言で思い出したことと言えば、プロ野球ファンの間では語り草となっている「巨人なんて弱い」発言である。1989年の日本シリーズ第3戦の後、3連勝して日本一に王手を掛けた近鉄バッファローズの選手がインタヴューでうっかり口を滑らしてしまったのだった。第3戦で勝利投手となった加藤哲選手の問題発言である。
 弱いチームとせせら笑われて大奮起したのかどうか知らないが、結局その後ジャイアンツは奇跡の4連勝を納め、見事逆転日本一を勝ち取ったのだった。あの顛末は今でも凄かったなあ、と懐かしく思い出す。第何戦か忘れてしまったが、当時ファーストの駒田徳広選手が決勝ホームランだったか決勝タイムリー・ヒットだったかを打った際、近鉄ベンチ(もしくはマウンドの近鉄投手)に向かって「バーーーーカ!」と叫んだシーンが忘れられない。
 もちろんTVのマイクは音声を拾ってはいなかったのだが、画面にばっちり映った駒田選手の口が、紛れもなく「バーーーーカ!」という形に動いているのである。あれには笑ってしまった。

 同時多発テロとシラク仏大統領の失言と加藤哲投手の暴言を並列するというのもセンスないけれど、そんなこんなを思い出し、「油断大敵」と「口は禍の元」を改めて肝に銘じるのだった。




07/09 大変なお引越し

2005/07/09 17:30
 義弟君のお引越しが今日だったのである。5、6年前だったか、仕事の都合もあるし職住近接が良いということで独り暮らしを始めたのだが、メールを出しても電話を掛けても連絡が全然取れなくなることがあまりにも頻発し、強制召喚される羽目になってしまった。気ままな独身貴族だったのか、味気なく侘しい日常だったのかは知らない。ただし義父母が半年に1回ほど様子を見に行く度に、ぎゅうぎゅう詰めのゴミ袋をクルマに山積みにして持ち帰っていたので、あまり健康的な生活ではなかったものと思われる。
 幸いにしてわたしは問題の部屋を覗いてみたことはないのだが、義父母や家人に言わせると「人間の住処とは思えない」ほど凄まじい場所であるらしい。いわく「ゴミや諸々の雑貨その他で床が見えない」とか「部屋のあちこちから30足分の靴下が出て来た」とか「流しの中で鍋が異臭を放っていた」などなど。想像するに、『のだめカンタービレ』の主人公・野田恵ちゃんの部屋に、さらに空いた酒瓶とタバコの吸殻をぶちまけたような感じだろうか。
 ともかくこのままではいずれ身体を壊すこと確実だし、義父母もおちおちしていられない。生活習慣から叩き直すとのことで、流石の義弟君も同意したものと思われる。

 家人と義父が中心になってレンタカーの手配やら不要物の廃棄などなどの手筈を整えている。義弟君の引越しなんだから、義弟君に主導権を持たせた方が良いのではないかと思ったが、のんびり構えていると話が全然進まないので、とりあえずやれる所までやっちゃうに限るということらしい。義弟君の都合よりも最寄の廃棄物処理場(日曜日の受付はしてくれない)を優先させた結果とはいえ、部屋の主である義弟君は仕事で不在というのがちょっと不思議である。
 天気予報によれば曇りのち雨とかで、昨日に比べればだいぶ気温も低くて引越し日和とは言える。しかし家人はともかく、義父に肉体労働をさせるのも心配だし、単身者用引越しパックなどを使って業者に頼めばいいのに、と内心思っていた。

 朝レンタカーを借りに行き、その足で義弟君のアパートへ赴いて荷物を積み込んで戻って来る。とりあえず家の中に運び込むものだけ降ろし、不要なものをゴミ処理場に運んで行ってレンタカーを返す。レンタカーの返却時間が15時、ゴミ処理場の受付終了が16時なので、結構タイトなスケジュールである。わたしはよっぽどのことがない限り手伝いはしないつもりである、と前以って家人に申し渡してあった。
 予定より随分早く、11時過ぎには家人と義父がレンタカーで戻って来た。荷物は全部を積めなかったので、乗用車でも運べそうな小物は残して来たのだという。なおのこと「引越しらくらくパック」とかに頼んでしまえば良かったのに…と言ってみたら、家人は渋い顔をして一言「業者に「返金するからこのまま帰らせてくれ」と言われそうな部屋だからねえ」と答えた。

 言われて眺めてみれば、義父と家人が大汗をかきつつ運び出している荷物の数々は、どれもこれも埃塗れで色が変わっている。一通り拭き掃除しなければ、家の中に持ち込むことさえ躊躇われる状態である。この状態を目撃してしまうと、ワレ手出シセズを宣言していたわたしでも、雑巾とゴム手袋を持ち出して来ずには居られない。成り行きを予測していたのか、義母は早々に買い物に出掛けてしまって留守である。わたしもそうすべきだったかと臍を噛んだがもう遅い。
 掃除・整理整頓が下手だと自認しているが、さすがに義弟君の凄まじさには負ける、と思った。なにせあらゆるものが一面綿ボコリに覆われているばかりか、その埃は茶色いのである。わたしの知る限り、綿ボコリというのは白〜灰色をしているものなのだが、義弟君の荷物に積もっている綿ボコリはキャラメル色。元々クリーム色だったハズのPCの筐体やディスプレイも、日焼けした肌のような色に変色している。つまりこれらは全部タバコのヤニ色に染まっているのだった(がーん)。

 変色しているだけでなく、そこいら中にヤニの匂いが漂っている。濡れ雑巾でその辺を拭き、バケツの水で濯ぐとあっという間に水は真っ茶色に変わり、駅の喫煙コーナーに置かれている灰皿のような異臭を放ち始めるのだった。いったいどれだけのタバコを吸ったらこういうことになるのか良く判らない。そして精密機械であるハズのPCが、この埃とヤニの中で正常に動き続けたということが信じられない気分になって来る。HDDなんかはデリケートだと思い込んで過ごして来たが、案外予想よりも頑丈なのかもしれない。
 単身者向けの小型2ドア冷蔵庫を掃除しようと、冷蔵庫のドアを開けて思わず声を上げてしまった。家人によれば予め中は空っぽにしてあるということだったのだが、中に干乾びてピンポン玉大に縮んだレモンが1個転がっていたのである。ぎょえーっ、レモンってこんな風になっちゃうものなのか! さらに冷蔵庫の中はどういう訳か、古いタクシーの匂いが充満している。たちどころに車酔いを起こすので大嫌いなこの匂い、つまりは密閉した空間にヤニを閉じ込めた結果の化合物(?)か何かだろう。

 間仕切り等を全て取り外して丸洗いをする。冷蔵室の中はいずれエタノール消毒でもするしかない。冷凍庫を開けて製氷皿その他の部品を取り出そうとして、今度は悲鳴も出ない気分に陥った。なぜ、どうして、製氷皿の中で羽虫がたくさんお亡くなりになっているのだ! そもそも冷凍庫の中に羽虫が入り込む部屋って何なのだ!
 この冷蔵庫、キレイにした後は地下のピアノ室に持って行って、例えば家人のドヴォ組でピアノを使うアンサンブルをする時など、飲み物を冷やすのに使おうということになっているらしい。この製氷皿で作った氷、このままでは正直わたしは食べられない。製氷皿と氷入れを抱えて台所に突進してまず食器洗い洗剤で洗う。まだ気持ち悪いのでキッチンハイ○ーに漬けて塩素消毒することにする。とりあえずこのくらいしておけば、羽虫だらけだった製氷皿のヴィジョンも脳裏から消えてくれるだろう。

 ともあれ結果的に2.5人掛かり(わたしは半人前)でやっつけたおかげで、レンタカーの期限の15時前にちゃんと返却しに行くことができた。後はクルマで小物を運び込んでから、義弟君本人に整頓してもらうことになるのだろう。いつになったら全部片付くのか、おそらくそれは神のみぞ知るのだろうが。
 家人と義父母のキツいお達しにより、戻って来た義弟君は禁煙せざるを得ないことになっているらしい。確かに家財道具に染み込んだヤニの匂い、どうかカンベンしてくれというレヴェルだった。あれだけのヘヴィ・スモークをキッパリ止めるのは相当難しいことだろうが、「義弟君更生計画」の重要なポイントとなっているので、せいぜい頑張ってもらうしかない。
 それにしても借りていた部屋、後の入居者は見つかるのだろうか。どう考えても敷金は全額クリーニング代に消えるだろうなあ…。




07/10 誤訳と呼ぶべきか、それとも…?

2005/07/10 14:35
 『スター・ウォーズ EP3 シスの復讐』を観に行こうかどうしようか、先日来激しく悩んでいるのであった。正直なところ、『EP1』と『EP2』はわたしに取って両方とも失望する作品だったのだ。少年アナキンは確かに可愛かったが、EP1は全体の雰囲気が余りにもネズミーランド的「お子様ランチ」に感じられ、今ひとつ没頭できなかった。個人的にジャージャーが死ぬほど嫌いだったのも大きい。アレック・ギネスを若返らせるとユアン・マクレガーになる、というのにだけは笑ってしまったが。
 EP2では青年アナキンにイライラしっぱなし。悲劇に終わる宿命的な(?)恋を演出し、その破綻と共にダース・ヴェイダー誕生へ繋げたかったのだろうと重々判っていても、主人公2人に全然感情移入出来ない。そもそもあのシリーズ最高の、そして映画史上でも屈指のラヴ・シーンと言えばやはり「I love you」「I know」の場面ではないだろうか。あのシーンを先に観てしまっていると、アナキンたちカップルの影はいかにも薄いのであった。この作品で凄かったのはヨーダ様だけである。

 物心付いて初めて映画館で「字幕の(大人向けの)映画」を観たのが『スター・ウォーズ』だった。あの時のわくわくする気持ちは今でも忘れられない。ミレニアム・ファルコン号の銃座(だったかどうか不明だが)でハン・ソロ船長が敵機を撃墜した時の快哉の笑いに、当時のわたしは一目惚れしたことを思い出す。これがアメリカ映画なんだ、と、半ば畏敬の念(という言葉はもちろん当時は知らないが)と共にそう思った。
 あの時の衝撃が大きいこともあろうけれど、今観てもやっぱりEP4〜6の方が面白い。CGなんかチャチだけれど、血湧き肉踊るコーフンがあの3本にはあったと思う。ライト・セイバーの立ち回りも、過剰振付けなEP1、2よりも後半3本の方が好きである。あれはチャンバラであってフェンシングではないのだ(力説)。地面に張り付くような低い重心の構えから躍り上がって1本、という流れやメリハリを何と心得る。ダンサブルな立ち回りだったら、『プリンセス・ブライド・ストーリー』のイニーゴ vs 黒装束の男のシーンの方が個人的にはずっと好きだなあ…。

 とは言え昨夜、義弟君と最近の映画の話題作についておしゃべりしていた時、『EP3』はすっごく評判いいみたいだよと聞いたのでやっぱり心揺れ動いてしまうのだった。コアなファンとは言えないが、それでもやっぱり『スター・ウォーズ』は大好きだ。スルーしようと思っていたのだが、予定を変更して観に行ってしまおうか。でも混んでるだろうしなあ。夏休みに入ったらもっと混むに決まってるしなあ。秋になってもまだやってたら行く、とか(ヘタレ)。
 先日『未来世紀ブラジル』の「情報剥奪局」の謎が解けた時、某巨大匿名掲示板のとあるスレッドを読んでしまったのも、『EP3』を観に行くかどうかの判断を微妙にさせている一因である。いやもしかして『オペラ座の怪人』の主人公3人がアホアホに見えたのも、『EP2』で主人公2人がバカップルにしか見えなかったのも、字幕のせいだったのかなあ、などと自分の判断に疑問が沸く。TV放映鑑賞の『EP1』には影響していないと思うのだが、吹き替えが字幕を元にしているのであれば判らないし…。

 わたしに取っての『スター・ウォーズ』はどうしても旧3部作だ、と思う一方、『EP3』での珍訳・誤訳の紹介に意地悪な興味が募ったりもする。クライマックスでキャラの1人が絶望的に「No!」と絶叫する時の字幕が「有り得ない!」だったとか、飛び道具に嫌悪感を示しての「So uncivilized」が「掃除が大変だ」だったとか聞いてしまうと、ちょっと確かめに行きたくなってしまうのだ(性格悪し)。ただしこれは試写会での2大地雷だったそうなので、公開時には直っているらしいが。
 そういえば去年の冬、『ナショナル・トレジャー』の試写会に当たって観に行った時、「北極大陸」という言葉が出て来て一瞬びっくりしたことも思い出す。まさかそんなと思っているうちに作品に集中してしまったので、本当にそんな字幕があったか確信が持てなかったのだが、前述の某巨大匿名掲示板のスレッド関係のまとめサイトにきっちりと「×北極大陸」という例が出ていて笑ってしまった。友人によれば公開時には訂正されていたらしいが、そうか、『ナショナル・トレジャー』の字幕もあの大御所様だったのか…。

 「北極大陸」は論外として、「So uncivilized」→「掃除が大変だ」くらいならば、TPOさえ充分に弁えていてくれれば適切な意訳となったのではないかと思う。確かにメチャクチャに散らかった部屋は「So uncivilized」とも呼べるもんね。問題はこの言葉、過去のシリーズ中に出て来る台詞と対応するものだったのだ。つまり字幕担当の方は、『EP3』を翻訳するに当たって旧作を参照しなかったばかりか、適当なスーパーヴァイザーも置かなかったということになる。やっぱりそれはマズいと思う。
 言葉とは押し並べて曖昧なものであり、取り分け日本語の曖昧さは世界でもトップ・クラスなのだろう。字幕を読まないでも映画を鑑賞できる英語力の持ち主ならばともかく、わたしは字幕と台詞をそれぞれフィード・バックさせつつ観るのが精一杯である。そこであまりに飛躍した字幕だと困ってしまう。状況を盛り込まねばならない時は適宜盛り込みつつ、基本的にはほぼ直訳にしてくれた方が、鑑賞者の価値観や受け取り方を尊重してくれるように感じて好ましい。
 本当に些細な1点が重要な決め手となる場合も良くあるのだから。

 映画とは関係ないが、そういう重要なポイントの例が『シンデレラ』に出て来る「ガラスの靴」だと思う。あの物語でシンデレラの神秘性、妖精のような軽やかさ、儚さ繊細さをものの見事に具体化したアイテムである。それが本当に最初から「ガラスの靴」だったのか、はたまた「リス革のスリッパ」だったのか、200年にも亘る侃々諤々の議論が続いているらしい。参照ページが非常に面白かったので、興味のある方はぜひご覧になって下さい。
 わたしが初めて『シンデレラ』を読んだ時は、確か『灰かぶり姫』というタイトルの童話だった。中身は『シンデレラ』そのものなのだが、1つだけはっきり覚えているのは、姫が舞踏会に履いて行ったのが「ガラスのスリッパ」だった、ということである。幼心に「スリッパなら、いくらガラスで出来ていても、ある程度たくさんの人が履けちゃうんじゃないかなあ」と不思議に思ったので良く覚えているのだ(可愛くない?)。
 誰の訳で何という童話集に入っていたかは覚えていない。ただ「ガラスのスリッパ」に無理矢理足を突っ込もうとして、2人の継姉たちがそれぞれ爪先と踵を切り落とす、というシーンがあったのが強烈だった。継姉が「指が邪魔で入らないわ」とか「踵がどうしてもはみ出してしまうわ」と言うと、継母が「ならばそんな指(踵)、切っておしまいなさい!」と答えるのである。怖過ぎっ。

 元々の言葉は「Pantoufeles de verre」というものらしい。「Pantoufeles」はヒールのないスリッパ状の部屋履き、「verre」はガラスの意味である。この「verre」が、一番初め、シャルル・ペローが耳にした民間伝承では、本当は「vair」だったのではないかという説が消えないのだそうだ。「vair」とは銀リスと訳されることもあるが、一般的には毛並みの美しい小動物の毛皮を指していたらしい。
 もしも「verre」は最初は「vair」だったのだとしたら、物語が伝わる途中で言葉の曖昧さが発動し、音と意味のすり替えが生じたことになる。しかしこの場合の誤訳(仮にそうだとしたら)が、『シンデレラ』の物語に対して果たした役割は何とロマンティックで有効なものだったことか。忽然と現れた謎の美女が軽やかに踊る、その足元が「毛皮のスリッパ」であるのと「ガラスの靴」であるのとでは、ヴィジュアル的な効果が雲泥の差である。「ガラスの靴」説が生き残るのも良く判る。

 何も毎度毎度こんな離れ業を期待するのではないから、せめて観ている最中に「?」と思わないような字幕を付けて欲しいなあ、と思う。かつては「あの人の字幕ならば安心だ」と思い、次第次第に「?」と疑問点が増え、挙句に某巨大匿名掲示板でウォッチ対象になっているのを発見して衝撃を受けるのでは、まるで某超長編ヒロイック・ファンタジー作者の成り行きを見ているようである(とほほ)。




07/11 入門編として最適

2005/07/11 16:24
 どうしようか散々悩んだ結果、明後日EP3を観に行くことにしてしまった。いつも出掛ける徒歩30分弱のシネコンの、これまた悩んだのだが字幕版を選んだ。あちらこちらから聞こえて来る声では、新3部作担当の某大御所さんのお仕事は今回もかなり面白いことになっているそうなのだが、吹き替え版だとやっぱり声のイメージが気になってしまう。そして吹き替えでも「?」な字幕をそのまま引きずっている部分が多いそうなので、それならまだ字幕版の方がマシだろうと判断した。
 本当なら字幕ナシで映画を楽しめれば一番良いのだろうが、気になる映画は何も英語版だけでもないのである。映画を観るためだけにフランス語やドイツ語、韓国語や中国語をマスターする人ももしかしたら居らっしゃるかもしれないが、わたしには到底そんな芸当は無理。せめて日本の字幕翻訳担当諸氏に、「字幕を読んでいると意識させないような字幕を、そして内容の解釈に関しては鑑賞者に一任して下さるよう」願いたいものである。

 某巨大匿名掲示板関係で読みに行くようになったとある翻訳家さんのブログに、先日某映画会社の字幕制作担当を名乗る方がコメントを付けていらした。翻訳家さんの厳しい指摘に我慢ならなくなって登場なさったらしい。きっとお仕事振りも真面目で熱心な方なのだろうとは思う。ただしその方のコメントを読んで、思わず絶望的な気持ちになってしまったのは、さる大御所さんを評した「「字幕でドラマを作っていく」上手さは群を抜いている」という1文であった。
 個人的な好みだが、わたしは別に翻訳家さんに「字幕でドラマを作って」欲しいと思わない。その辺りのニーズのすれ違いが、映画会社関係者諸氏と末端の鑑賞者たちとの意思疎通を阻んでいるのかもしれない。とすればこの問題、思った以上に根深い厄介なことなのかも…。
 わたしとしては、字幕には飽くまでも「実況中継」をして欲しい。そこで起こることをただ淡々と教えてくれればそれでいい。起こったエピソードについての極端な意訳や解釈や解説は不要なのである。たまにいらっしゃる絶叫型アナウンサーさんたちのように、凡フライを「あと一歩でホームラン」とか、ボテボテのゴロを捌いただけのプレイを「スーパー・ファイン・プレイが飛び出しました!」とか演出されるのは御免蒙りたい。特に話題に上っている大御所翻訳家さんの場合、右中間のフライがセンター前ヒットになってしまう例も散見される。それはやっぱりちょっとね…。

 人間同士のカンペキなコミュニケーションが不可能である以上、こういう問題はどこまでも終わらないのだろう。どんな情報ソースを選んでみても、結局はその発信者の主観を又聞きしているに過ぎない。1次情報をなるべく確認する努力は必要かもしれないが、そこにはどうしても限界が存在する。せめて「自分が今接触している情報は誰かの主観を通したものである」ことを忘れない努力をするべきだろうなと思うのだった。
 そんなことを思ったのは、先日ヨド○シで見つけた「クラシック100選」といったタイトルの名曲アンソロジーに少々驚いたからである。何でもこの6枚組のCD、クラシック・ジャンルでは異例の大ヒットを飛ばしているのだそうだ。入門編に最適というキャッチ・コピーも付いていたので、わたしも実は気になっていた。「聴いたことはあるけどタイトルが判らない」名曲の数々を、個別認識し直すのに良いかもしれない、と思ったのだ。もしラインナップが良かったら買ってしまおうか。

 売り場で実物を手に取ってふと考えた。6枚組で100曲というと、1枚のCDに16〜7曲収録されている計算になる。それはまた随分たくさん入っているんだなあ。CD1枚は確か74分間だから、1曲平均4分半というところである。クラシック曲で5分を切るものは、実はそう多くはない。どういうことなんだろう、と思っていたら、みんなが知っている名曲の、さらに有名なところ「だけ」抜粋して収録してある場合が結構あるのだった。
 ある交響曲の第1楽章「だけ」とか、そういう選択でさえない。例えばグリーグのピアノ協奏曲第1楽章なら「冒頭」。ホルストの組曲「惑星」より「木星」の終結部。エルガーの「威風堂々第1番」では同じく「終結部」。そりゃどれも大変有名な部分だけれど、その有名な部分だけ抜き出して「聴きました」と言われてしまうのも何だか切ないものがある。

 ちらりと目にした解説では、入門者向けだけではなく、ある程度クラシックについて知識のある人でも楽しめるように、編集には大変ちからを入れているのだという。そういう楽しみ方もあるにはあるのだろうが、あくまでもそれはキワモノ的な楽しみ方だと判っていて欲しいなあという気持ちも抑え切れなかったりする。100個の「有名フレーズ」の中で気に入ったものがあったら、まず全曲聴いてみて、さらに同じ作曲家の別の曲を聴いてみて…というふうに発展してくれるのなら良いのだが。
 ホルストの「木星」にしても、何人もの歌手にカヴァーされて歌になっている部分は確かに素晴らしいけれど、冒頭のインパクトだってとっても大きいんだぞ、とじれったくなる。最初から通して聴いているからこそ、あの重厚なフレーズが出て来た時に「おお!」と感動するということもあるんだけどなあ…。

 わたしも1枚のCDを聴く時に、例えば組曲の中であまり好きではない曲を飛ばしてしまったり、緩徐楽章をスキップしたりすることはある。だからあまり偉そうなことは言えないのだが、やっぱりせめてせめて、ピック・アップするのは「曲単位」であって欲しいなあと思う。ポップスやロックの名曲にしても、サビとか有名な部分だけ抜き出して聴くのは邪道なのではないだろうか。クラシック曲は確かに長いかもしれないけれど、その多くは今よりテンポのゆっくりだった大昔に作られたものだと思って、我慢して付き合ってあげて欲しいのである。
 有名な曲でも1人1人ツボに感じるフレーズが違ったりすることも良くある。「100選」の選者が捨てた部分にも、聴き手にとって素敵な曲がいっぱいある可能性だってある。知らないまま過ごすのはあまりにももったいないことだと思う。




07/12 手の中に残る温もり

2005/07/12 17:52
 時々あることなのだが、夢で見たことと現実がごっちゃになってしまった。ついこの間は「今日の晩御飯は何か美味しいものでも食べに行こう」と珍しく家人が言い出し、わたしが「わーい」と喜んでわくわくと計画を練っている…という夢を見た。起きた後も何となくそれがアタマに残っていたのか、ついその日の夜は外食予定、と思い込んでしまっていて、危うく晩御飯の支度をすっぽかすところであった(阿呆)。休日だったので家人とお昼を食べている時に思い違いが発覚したのだが、あれが平日だったら勘違いしたままだったに違いない。
 家人はそういうことはないという。夢と現実をごっちゃにするどころか、夢そのものをあまり見ない体質らしい。心理学の一説によれば、夢とは「過去の情報を再生・再構成したりして整頓する作業」だということだが、それが本当なら見聞きする事物がわたしより遥かに多いハズの家人は、もっと奇天烈な夢を見ていてもいいのではないだろうか。不思議である。

 わたしの夢は5.1chサラウンドでフルカラー、匂い手触り付きの大変リアルなものが多い。味だけはあまり出て来ないような気がする。ともあれ臨場感たっぷりに、ある日はスラップスティックに、またある日はサスペンスフルに、また別の日はドキュメンタリー風にドラマが繰り広げられる。星新一氏のショート・ショートで「夢の劇団の団長が一人称で語る夜毎の苦労話」というテイストのものがあった記憶があるが、もしわたしのアタマにも一座が居るのであれば、さぞかし仕事熱心なのに違いない。
 ちなみに、かつて見た夢の中で思い出せる限り一番疲れたのは、大学院の頃の「朝起きて学校へ行って1日研究して疲れて帰って来るまでの超リアルなドキュメンタリー」、一番理解に苦しむのは最近見た「長良川の鵜たちに待遇の不満をぶつけられる不条理劇」であった。

 今朝の夢は「数日前に大雨が降った日、近所でずぶ濡れの仔猫を拾って来て“ビンゴ”と名付け可愛がっている」というもの。わたしは重度の猫アレルギーなので、猫を拾ったりは出来ないハズなのだが、何故か夢の中ではアレルギー症状が出ず、喜んで飼うことになったのである。その辺に多少「おかしいな」という疑問は沸いたのだが、夢の中で夢だと気付くことは出来なかった。
 何しろリアルな夢で、推定生後2か月ほどの仔猫がずぶ濡れでぐったりしている時の重みというか泣きたくなるような軽さ、拾い上げてタオルで拭いたら手の中でぶるぶる震えている感触、乾いて来た毛皮の「仔猫臭さ」などなど、どれを取っても臨場感抜群だった。温めたミルクを小指の先に付けて舐めさせた時のざらざらした舌やちっちゃな歯の感じ、しがみついて来る爪がメチャクチャ痛かったこと、どれも夢とはまだ信じられないのである。

 今朝起きて、ベッドの中に仔猫が居ないのでヘンだな、と思った。ビンゴがもし先に起きているとしても、わたしがベッドから足を床に下ろしたら、待ち構えたようにその間をぐるぐる身体を擦り付けに来るのである。というか、夢の中の日常ではそういうことになっていたのだった。実際には猫を飼ったことがないので、おそらくかなり人間様にとって都合の良い「理想の猫」ドリームだったのだろうと思うが、ともかくそういう風に「ビンゴと家人とわたし」の暮らしを送っているハズだった。
 目が覚めてしばらくして、良く良く考えてみると、ビンゴなんて猫はそもそも存在しなかったのだ。元々存在しなかった猫の不在に喪失感を覚えるというのもおかしな話だが、居なくなった幻の猫があまりにもリアルだったので、今日は何だか微妙に落ち込んでいるのである。

 メールをチェックしている時に膝の上に乗っかって来たり、ご飯をくれと鳴き喚いて背中にぶら下がったり、うるさいけれどメチャクチャ可愛かった。ハインラインの『夏への扉』のピート(というか表紙の猫の後ろ姿)そっくりの柄だった。まだ手にはビンゴの感触や体温が残っているような気がするのに、やっぱりあれは夢だったんだろうなあ。起きた後に寂しくなってしまうから、生き物を飼う夢だけは見たくなかったのだが…。




07/13 先入観は持たずに鑑賞できたと思う

2005/07/13 17:34
 『EP3』は予想通り大混雑だった。判っていて何故レディス・デイを選ぶかと言うと、破格の1000円ぽっきり(ネットで予約すると手数料が100円かかってしまうが)というリーズナブルさがやはり一番の理由である。日中の時間を比較的自由に遣り繰りすることが出来る立場上、このチャンスを逃す理由はない。徒歩30分かかる片道は夏場は特にしんどいけれど、今日の暑さはそれほどでもなかったし。
 レディス・デイを無視出来ないもう1つの利点は、観客の多くが当然ながら女性である、ということ。非常に個人的かつわがままな好みなのだが、わたしは前の席に背の高い男性が座るとイライラしてどうしようもなくなってしまうのだ。席の配置に配慮のしてある劇場なら別だけれど、大抵の場合は客席の傾斜が不充分だし、座席が互い違いになっているところも少ない。身長155cm少々のわたしは、目の前の席に大柄な男性に座られると、画面にアタマが入ってしまうのである。

 今回はラッキーなことに、前の列3人が全て女性の方々だった。しかも3人ともわたしと同じくらいの小柄な人たちだったので、すっきりとクリアな視界を楽しむことができた。わたしの後ろの席に座っていた人も、きっと同様にすっきり鑑賞出来て満足なさっていたことと思う。たかが身長差と侮るなかれ、うっかりすると字幕が隠れることもあり、そういう時は金返せという気分になってしまう。ちなみに過去の鑑賞経験の中で一番困ったのは、前の席に座った背の高い男性が、パンク・ロッカーのようなツンツンの髪型をしていた時だった。
 こういう時の不満を解消するにはどうしたら良いのだろう。スクリーンをもうちょっと上に配置すればいいのかもしれないが、あまり行き過ぎると首が疲れてしまう。座席の段差をもっと大きくするのも手だろう。上のスペースが必要になるので、大多数のシネコンには厳しい要求かもしれない。来年春に完成するというウチの近所のシネコンには、こういう点に配慮が行き届いているといいなあ、と思う。

 映画感想文で書いた通り、作品そのものはわたしは結構楽しんで観ることが出来たのだが、観客のテンションはあまり高くなかった。先々行上映、先行上映が既にあって、しかもロードショーの封切りも先週の土曜日だったのだから、熱心なマニアの方々はもう大方観ちゃっていたのかもしれない。とは言え、上映中にお手洗いに立つ人の数が半端ではなかったのがちょっとモニョだった。一大宇宙叙事詩の世界に浸っている時に、目の前をウロウロされると本当に哀しくなる。
 映画が始まる前にお手洗いに行っておくというのは基本だと思うのだが。わたしも『スチーム・ボーイ』では中座したクチなので大きなことは言えない(汗)。ただし作品が面白ければ、内容に夢中になって多少のことは我慢できちゃう場合も多い。『スチーム・ボーイ』の時は中座しないで済むほど熱中できなかったのだ。もし今日お手洗いに立った人たちがみんなそうなのだとしたら、ちょっと哀しいかもしれない。

 ある程度覚悟していたことではあったが、やっぱり字幕版じゃなくて吹き替えにしときゃ良かった、とも思った。EP4〜EP2までを全部、委細漏らさず覚えているとは言えないわたしでも、時々「あれ、そこは過去の作品と対比になってる台詞じゃなかったっけ?」という違和感にぶつかった。例えばコルサントへの不時着シーンで「Another happy landing」が「スムーズだったな」というのはちょっと「?」なのである。意味としては間違ってはいないけれど、台詞に込められた茶目っ気が丸っきり無視されている。
 試写会での最大ブーイングとして聞いていた「有り得ない!」はなくなっていたけれど、もう1つの地雷だという「掃除が大変だ」はそのまま残っていたので軽く鬱。その台詞が出て来る状況と、口にするキャラがキャラだったので、余計に違和感がアリアリであった。パドメが「自分に厳し過ぎよ」と言ったのも、意味としてはむしろ逆だろう。いっそ直訳で「多くを望んでは駄目よ」にしておいて欲しかったと思う。

 思えば今までこの大御所さんの字幕で、背景に前提となる設定がこれだけある作品を観たことはなかったのである。『未来世紀ブラジル』の「情報剥奪局」や『アポロ13』、『オペラ座の怪人』での疑問点が、気になる人にはなるほど耐えられないものだったのだろうなということが改めて判ったような気がする。気が付いちゃったら最後なので、いっそのこと「?」なところは徹底的にスルーしておけば良かった。
 最大の物議を醸したのは『ロード・オヴ・ザ・リング/旅の仲間』の時だったらしい。わたしはこの作品、残念ながら劇場での鑑賞は逃してしまった。一番最初に観たのはCATVで『FotR』を初放映する有料チャンネルが、何かのキャンペーンでたまたまノン・スクランブルになった時だった。とりあえず原作を読み返してから観たのだが、それでも違和感のあったのがボロミア兄さんの言動である。

 検証サイトが作られて字幕改善の一大キャンペーンが張られた一番の理由が、ボロミアの性格を誤解させるような字幕が多過ぎる、ということだったらしい。わたしとしても最大の問題点だという「嘘を付くな!」にちょっと引っ掛かったので、そう言われて見れば…と思い当たる違和感であった。後に友人宅でSEE版の上映会を開いてもらった時にどうだったかちょっと覚えていないのだが、「あれ?」と思った記憶がないということは、その時には既に修正されていたのだろうか。
 『EP3』に関しても例の「掃除が大変だ」はあまりにひどいと思うので、せめてDVDを発売する時には吹き替えの台詞のように「こんな武器を使うとは」に直しておいて欲しい。キャラの性格を変えてしまうような字幕は、やっぱりちょっと遠慮願うのであった。




07/14 山のような甘栗

2005/07/14 22:51
 先日、母から電話が来た。お友達に甘栗を沢山もらってしまったが、独りでは到底食べ切れずに困っているから少し持って行ってよ、と言う。栗・抹茶・小豆に目のない家人は諸手を上げて歓迎し、わたしとしても栗は好物なので有り難くいただくことにした。わたしも家人も「とっても沢山の甘栗」と聞いて想像したのは、せいぜい1kgとか2kgとか、そのくらいの話だろうと思っていた。何かの事情で業務用甘栗(そんなものがあるとすればだが)をもらったとか、そんなようなことだろうと。
 母のマンションに到着する。勝手知ったる他人の家、わたしはスペア・キイを持っているのでチャイムも押さずにドアを開けた。玄関に見慣れないダンボール箱が3つほど積んである。「こんち〜」と声をかけつつズカズカと中に入る。リヴィングに居る母に「甘栗、もらいに来たよ、どこにあるの?」と訊くと、母は「だから、アレなのよ、玄関の…」と困った顔で廊下を戻って行った。

 嫌な予感に駆られつつ母の後を追う。もしやさっき玄関で見かけたダンボールって甘栗なのだろうか。甘栗って、数える単位は頑張っても「袋」単位ではないのだろうか。ダンボール3箱の甘栗って何やねん!
 予感的中。良く見ると、3つドドドンと積まれたダンボール箱の横腹には「天津甘栗100A」と印字してある。母が開封した1箱を覗き込んでみると、中にはカレーのレトルト・パウチに良く似たサイズの袋がぎっしり詰まっていたのだった。1袋100g入り、ダンボール1箱には50袋入っているらしい。それが3箱、〆て15kgの甘栗である。ひょえー。

 確かにこれは母が独りでどうにかできる量ではない。しかも殻付きではなくて「むいちゃいました」タイプの甘栗なので、15kgほぼ丸々全部が可食部である。この状況で殻付き甘栗だったらさらに困るし、「むいちゃいました」タイプで良かったのかもしれない。結局ノルマとして1箱引き受けることになった。
 隣家の義父母に10袋くらい引き取ってもらう。家人は会社の同僚たちとおやつに食べると言って2袋持って行った。わたしもバレエ教室やバレエ体操の仲間たちに1袋ずつ配ろうかと思った。しかし食い意地の張った家人は「あんまり広範囲に撒いたら思う存分食べられなくなっちゃうから…」と不安そうな顔もしている。とすると人数の多いスポーツ・クラブのバレエ体操クラスはNGだろうか。隣家と家人の会社で12袋、バレエ教室の先生と生徒は合計8人。まだ残り30袋もある。

 とりあえず賞味期限が今年の9月くらいまであるので、わたし10袋で家人20袋と考えても、食べ残すことはないだろうと思う。しかし栗って結構カロリー高いのではなかったろうか。食品成分データベースによると甘栗100gは222kcal、思ったよりは低カロリーかもしれない。少なくともカシューナッツ(大好物)やサイコロに切ったパルミジャーノ・レッジャーノをおやつにぽりぽり齧るよりはずっと良さそうである。
 でもやっぱり、わたしの分はもうちょっと誰かにお裾分けして減らそうかなあ。多分途中で飽きてしまうのではないかと心配だったりするのだが…。

 そもそも母にこれだけ大量の甘栗をくれた人はどういう事情だったのだ、と訊いて見る。卸か小売か良く判らないが販売関係のお仕事をしていらっしゃる方で、仕入先のミスにより予定外の「甘栗15kg」が納品されてしまったらしい。完全な向こうの手違いなので代金は要らないが、持って帰る訳にも行かなかったらしく(なぜだろう)、そのまま置いて行かれたのだという。いろいろあって転売するのも都合が悪いとかで、巡り巡って母のところに落ち着いたのだった。
 母はその広範囲な交友関係に配りまくって1箱分の目処は付けているらしい。1箱はウチに来たので残りは1箱。中の妹と末の妹のところに分けるつもりだろうが、中の妹は独り暮らしな上に甘いものが余り好きではない。「甘栗あげるからおいで」と言っても出張って来るほど可愛いヤツでもない。「面倒臭いから要らない」と一蹴されるのではないかと思う。

 とすると末の妹一家に1箱、ということになるのだろうか。折り良く、今月21日に妹夫婦と姪っ子1号2号がやって来る予定である。妹と姪っ子たちは遊びに来るのだが、妹の夫君は出張のついでに立ち寄るだけとのことで、当然のことながら移動手段は新幹線。到底5kgのダンボール箱を持って帰らせる訳には行かないだろう。妹と姪っ子たちの滞在期間中にハケなかった分は、なんだかんだでまたウチに回って来るような気もするのであった…。




07/15 ラッキーな日

2005/07/15 15:38
 相変わらず金曜日には全身の筋肉痛でギクシャクしている。バレエ体操とパワー・ヨガのクラスが同じ日に設定されているので、木曜日というと集中筋肉トレーニングが最近の習慣なのである。バレエ体操はもう半年、パワー・ヨガも受講3ヶ月目が過ぎようとしているが、どうしても翌日の筋肉痛がなくなることはまだない。パワー・ヨガ第1回目の翌日は起き上がるのもやっとだったので、それでも多少、改善されてはいるのだろうが。
 バレエ体操とパワー・ヨガは掛け持ちしている受講生が多い。そのお仲間たちに、昨日は「最近お尻回りがすっきりして来たわよ」と言われてちょっと嬉しくなっている。人間の身体というものは、やはり酷使すればそれだけ締まるものなのだろうか。この調子でケツや太ももをもう少し細くしたいと思う。

 不思議なのは、「絶対細くなった」と複数の人に言われるのに、体重は全然変わっていないことである。体重計の数字は相変わらず「ううむあと3〜4kg減らすとベストなんだけどなあ」というところなのだが、服のサイズは以前ベスト体重をキープしていた頃と変わらない。脂肪が落ちて筋肉が付いたということなのだろうか。
 手持ちのジーパンがキツくなったら赤信号、という基準があるので、まあそこをクリアしている限りはいいことにしよう。わたし個人の考えでは(多少極端かもしれないけど)、仮に身長155cmで体重80kg、とかだろうと、見た目がスマートなら構わないのである。体重なぞ、体重計に乗らない限り誰にも判らんではないか。逆に言うと体重が40kgを切っていようが、体型がみっともなかったらイヤだと思う。去年の夏頃、夏ばてでかなり減量したのだが、その時も上半身はゲッソリしたのに下半身はタプタプのままだった。大いに不満だった。
 数字的には「痩せ」なのに「まだ太い」と思う人が多いそうだが、そういう人たちも、きっと同じように感じているのではないかと思う。BMI18でもボウリングのピン体型では哀し過ぎる。

 階段の上り下りのたびにハムストリングや腹筋が痛み、掃除機を持ち上げようとすれば肩や背中がギクリとする状態だが、何もせずに寝ている訳にも行かない。とりあえず洗濯機を回しながら掃除機をかけていたところに電話がなった。「非通知」なので無視していたら留守電に切り替わり、家人の声が聞こえて来た。どうやら会社からかけているらしい。家人の会社の電話網がどういうシステムなのか知らないが、ナンバー・ディスプレイが無効なので困ってしまう。
 妙に慌てた声で「今日の晩ってキミ何か用事ある?」と訊く。何事かと思ったら、同僚の方が観戦予定だった今晩のジャイアンツ vs ベイスターズのチケットがもらえるかもしれない、という。急に都合が悪くなって、折角買ったチケットが無駄になってしまうから、もし代わりに行くんだったらタダであげるよ、と言われたらしい。

 もちろん行くとも、ぜひ行かせていただきましょうとも、と答えた。今年のわたしのイチオシ球団は川相昌弘選手の所属する中日ドラゴンズだが、2番目の贔屓が横浜ベイスターズなのだ。他には楽天ゴールデンイーグルスも応援している。個人単位で贔屓にしている選手も、スワローズの古田敦也選手やロッテマリーンズの小坂誠選手、選手ではないがボビー・バレンタイン監督など数多い。基本的にミーハーで気が多いのである(汗)。
 今年は開幕から負けが込んでいることもあり、ジャイアンツ戦のTV視聴率は惨憺たる有様となっているらしい。東京ドームのチケットも、以前はプラチナと呼ばれていたものが、最近ではだいぶ入手し易くなっていると聞く。それでも、金曜日の晩、東京ドームのS席チケットと言ったら、やっぱり相当貴重なものだったのではないだろうか。タダで下さるなんて、なんと気前の良い方だろう(感謝)。
 現金なもので、そう聞いたら筋肉痛の辛さもそれほど気にならなくなったような気がする。日常業務をとっとと終えて、準備万端で東京ドームにお出掛けしよう。ちょっと早目に家を出て、待ち合わせ時間までに本屋さんへ立ち寄ってもいい。浅暮三文さんの『実験小説ぬ』が発売されたと、昨日電車の吊り広告で見掛けたばかりなのだ。

 もちろん試合そのものも非常に楽しみである。ベイスターズの中で一番の御贔屓である、石井琢朗選手のファイン・プレイとか盗塁シーンなんか飛び出したら嬉しい。もしかして新守護神のクルーン投手が160km/hを記録するところが見られる可能性もある。
 そして願わくば、ジャイアンツとベイスターズどちらが勝つにしても、10−0とかの大差は付かないといいなと思う。ジャイアンツがそういう試合で負けたら家人の機嫌が悪くなるし、ベイスターズが負けたらわたしの方が面白くない。かと言って延長12回時間切れ引き分けというのもあまり嬉しくない。観てて楽しい試合になるといいな。欲張りな望みかもしれないけれど。




07/16 乱丁騒ぎ?

2005/07/17 00:37
 今月の1日、某小説の最新刊を買って読んだ。大層人気のシリーズで、もう12年以上も続いている長寿小説である。わたしはこのシリーズの第1部が大好きだったのだが、だんだん長くなるに連れて少しダレてしまい、第3部が終わったあたりで脱落してしまった。すっかり忘れていたけれど、1年ほど前に『のだめカンタービレ』を読み始めてハマってしまい、ついでに「そういえばアレはどうなっているんだろう」と思い出して再び手に取るようになったのである。
 掲載されていた雑誌は休刊するやら、作者さんが超多忙になってしまって刊行ペースが年1〜2冊に減るやら、人気シリーズとは言え結構な受難続きである。一番最初の話を読んだ時の直情径行的な熱はもう落ち着いているのだが、それでも長く付き合っていると(脱落期間が結構長いものの)、キャラクターたちの成長ぶりをほのぼのと見守りたい気分になってくる。

 シリーズ27冊目かそこらの最新刊を読んでいたら、最後で非常に不可思議な現象にぶつかった。ラスト・シーンと思われる会話が終了した後、また同じようなシチュエーションのシーンが出て来るのである。台詞も同じものが出て来るが、さっきまではその場に居なかったキャラクターがいきなり登場していたりして、一生懸命読んでも何がどう繋がっているのか判らない。そうと気が付かないうちに重要なキイ・ワードを読み飛ばしてしまったのだろうかと、最初から読み直したのだがやっぱり「?」なままである。
 読み直していたら、他にも「?」な部分が出て来てしまった。主人公が誰かのことを「誰だっけ」と不思議がるのだが、その相手がどのキャラなのか、良く判らないのだ。最初に読んだ時はつい斜め読みしていて気が付かなかった。

 ひょっとしたら脱落していた期間に出た分とか、もしくはそれ以前に出ていた分に仕込まれていた伏線を、わたしがすっかり忘れているから判らないのだろうか、と思った。これがブランクということか…と少々寂しく思いつつ、どうしてもラスト・シーンが謎で気になってしまう。こういう時は某巨大匿名掲示板を覗いてみるに限る。このシリーズほど人気のある物語ならば、スレッドの1つや2つ必ず立っているハズである。
 探し当てた問題のスレッドでは、やっぱりラスト・シーンについて大騒ぎになっていた。誰も整合性の高い解釈を思い付けないでいるのだ。どちらかと言うと住人のお1人が書き込んだように、「解釈」は諦めて素直に「ボツになったシーンがなぜか原稿に紛れていて、ラスト・シーンのところだけダブって本になってしまったのではないか」と理解した方がすんなり来る。もう1つの疑問点についても、単に前後の行が入れ替わっていると思うと意味が通る。
 なるほどそうだったのかと思いはしたものの、今度は「そんなことが有り得るのだろうか」と不思議になってしまった。

 有り得るも何も、現実にそうとしか考えられない現象が起きている。乱丁ではないかという指摘も出ていたものの、ウチにある本のページ数はきちんと通し番号が振られている。そもそもおかしなシーンはページの途中から始まっているので、印刷工程のミスである乱丁ということは考えられないのだ。
 某巨大匿名掲示板の書き込みにあったように「ボツ・シーンが紛れ込んだ」のが真相だとすると、著者校正をしていないのだろうか、という疑問が沸いて来る。途中に出て来る行の入れ替わりくらいなら、多忙な場合、ひょっとすると見逃すということも考えられる。しかしラスト・シーンの唐突なダブり具合は、斜め読み程度でもちゃんと見直していれば絶対に気が付くハズである。著者校正をしないで本が出てしまうというのは、雑誌ならともかく、一応れっきとした文庫本の場合にも起こることだったとは知らなかった。ちょっとショックである。

 以前から時たま「ゴルゴンゾーラ・チーズは羊乳から作られる」という「?」な薀蓄が出て来たり、「ソリスト」の意味で「コンチェルター」という言葉が使われていたりしてびっくりすることはあった。ちなみにこの2つとも、某巨大匿名掲示板の過去スレッドでも指摘されていたことなので、かなりの読者が疑問に思いつつスルーしていたのだろう。このくらいならば、書く時の下調べが不充分だったのだなということで理解できなくもない。
 しかし途中で行が入れ替わっていたり、あまつさえボツになったハズのシーンがくっついたままになっていたりというのは、言葉は過激だがある意味「不良品を掴まされた」ということではないかと思った。どういう事情があったのかは判らないけれど、明らかなミスのあるものを流通させてしまったというのは結構なチョンボである。

 数日前、掲示板に新しい情報が出た。ここしばらく各書店で品切れ状態になっていた問題の本をやっと入手した人の書き込みである。なんと問題のラスト・シーンや行の入れ替わりが訂正されている、という。しかも奥付は「初版」らしい。考えられることは2つである。わたしの買った分を含め、初版のうちかなりの部分が「乱丁本(便宜上こう呼ぶけれど、実質は乱丁とは言えないことは前述の通り)」だった。もう1つは、苦情を受けた出版社が出回っている本をこっそり回収し、ミスを訂正したものを改めて流通させた。
 どちらが真相なのかは判らない。ただし「ロット不良」だったとしても相当大規模だったのは確かで、個人的には発行元の出版社は消費者に向け、不良品についてのアナウンスと、正常品との交換を希望する場合はどうしたらいいのかを、周知するべきではないかと思う。今のところ書店等にお知らせが出たという話も聞かないし、出版社の公式サイトに何かアナウンスされていることもない。

 こういう考え方は好きではないが、所詮は本だから、この程度の扱いなのだろうか。これが例えば人の生命に関わることであれば、今回のような不可解な処置は行なわれないだろう。ロット不良だったにしろ、初版全部が不良だったにしろ、何らかの形で返品・交換についてのお詫びと指示が出るハズだと思う。
 即日完売したイオンの「10万円液晶大型TV」の設定不良とやらが即座に発表され、再設定の対応が行なわれているのを見るにつけ、出版業界というのはもしかしたらものすごく消費者をナメているのではないか…と思うのだった。1出版社の所業を業界すべてに敷衍するのは良くないかもしれないけれど。




07/17 メモリ増設

2005/07/17 17:35
 1階リヴィングに置いてあるデスク・トップのメモリを増設しようと思うんだ、と家人が言い出した。以前この日記にも書いたように、なぜかAccessの作業中にいきなり電源が落ちてしまう現象が続いていたのだが、その原因はメモリにあるのではないか、との意見を聞いたらしい。コンピュータに詳しい義弟君に相談したところ、メモリにも液晶ディスプレイに時たま見られるような「ドット落ち」に似た微細欠陥があり、特定の作業がそういう微細エラーに引っ掛かる可能性も考えられる、と言われたらしい。
 ウチの住人2人の感じから行くと、Access作業時に見られる強制終了はそういう性質のものではないような印象ではある。どちらかというと家人が言い出した「熱暴走を防ぐために、本体内部が過熱するとフェイル・セーフで勝手に電源が落ちる仕様」の方がピンと来る。はっきりした根拠はなく、単に直感的な手触りなのだが、強制終了がAccess作業時だけでなく、幾つものアプリを立ち上げている時など、負荷が重い時にもたまに見られることは傍証と思われた。

 メモリを増設するのは別に構わないが、ごくまれに(例え純正品を買ったとしても)PCとの相性が悪かったりして使えないことがある。何よりPCの筐体を開けて作業するのが面倒臭い。筐体を開けることがというよりも、そこに繋がった種々様々なコード類を抜いたり挿したりするのが大変だったから、という理由の方が大きかったかもしれない。ともかく、それらの理由で、メモリ増設は延び延びになっていた。
 義弟君情報によれば最近では「PC相性保険」とかいうオプションも、家電量販店で付けてくれるようになったらしい。プラス500円かそこら追加すると、初期不良以外、相性の問題で使いにくかった時にでも、無償で交換してくれるという。それを聞いて乗り気になった家人がいろいろ調べ始めると、どうもウチの1階PCに合うメモリ、そろそろメーカー生産が終わりかけだと判った。買ってからまだ2年も経っていないのに、PC関係は本当に目まぐるしく入れ替わってしまう。

 どうせなら、今挿さっているのと同じものをもう1枚買って、上限ぎりぎりまで増設しておけばいいかもしれない。家人はそう言ってヨド○シへ出掛けて行った。今までは512MBだったので、もう1枚512MBを買って来て1GBにするらしい。昔と違って今はメモリもかなりお手頃価格になっているようだし、メモリ容量に余裕があれば確かにAccessも使いやすくなるだろう。
 ウチでは現在、CDライブラリの整頓が未だ進行中なのだが、膨大なCDたちはジャンルごとにCDケースにとりあえず詰め込まれたまま、データ・ベース化の時をじっと待っているのだった。早いところ手を付けなければ…と思うものの、Accessで作業を始めてまたまた強制終了を喰らいましたという状況に陥ったら、渋々のやる気も途端に萎えてしまう。そう思うとなかなか手を付けられなかったのだった。

 実際の作業はわたしが昼寝を決め込んでいる間に家人がやってくれた。というか元々最初からわたしは手を出すつもりはなかったのだが、目が覚めたらPCが気持ち早くなっていたので爽快である。ついでに筐体の中に溜まっていた埃もキレイに掃除しておいてくれたらしい。もし「熱暴走を防ぐために(中略)電源が落ちる仕様」なのであれば、強制的電源落ちは筐体内部に埃が溜まっているなどの理由で、空冷の効率が落ちているからではないか、と仮説を立てていたからである。
 まったくの出任せではない。電源落ちについてネット検索をしていたら、同様の症状に悩むノートPCユーザのブログに行き当たったことがある。思い切ってノートの蓋を開けて中を見てみたら、驚くような埃がファン周りに詰まっているのが発見されて、それを取り除いたら改善したのだそうだ。ノートとデスク・トップでは事情が違うかもしれないが、筐体を開けて掃除するくらいならばやっても損することはあるまい、そう提案したのだった。
 ただしコード類(以下略)の理由で、メモリ増設と同じく、筐体内部の掃除も延び延びになっていた。

 増設作業が順調だったのかどうかは、わたしは昼寝をしていたので知らない。ただ掃除機が出しっ放しになっていたので、増設ついでに中の掃除もちゃんとやっておいてくれたらしい。訊けば、やっぱり筐体の中は結構埃が溜まっていて、特にメモリ周りや空冷ファン周りにたっぷりと埃がまとわりついていたと言う。やっぱりなー、と思った。
 断言は出来ないけれど、きっとその埃のせいで冷却効率が落ちていたのではないだろうか。とりあえず原因と思われることを1つ潰したので(メモリの件も入れれば2つか)、あとは検証を兼ねてAccessを使ってみるしかない。この作業は主にわたしが時間を見つけては地道に入力する、という手筈になっている。面倒臭いけれど、いつまでも先延ばしにする訳にも行かないし、ぼちぼち腰を上げることにするか…。




07/18 生理的にフィットするもの

2005/07/18 23:33
 初回は18%以上の視聴率を叩き出したというフジ系列の連続ドラマ『電車男』、第2回目をつい観てしまった。内容がどうこうよりも、オープニングのアニメーションが伝説の「ダイコンアニメ」のオマージュになっているという話を聞き、つい興味が湧いたのである。わたしはSF大会に参加したことはない。「ダイコンアニメ」も観たことがない。しかしそれだけに、日本のアマチュアのレヴェルの高さを内外に知らしめたというフィルムがどんなものなのか、その片鱗に触れてみたいと思った。
 正直なところ、『電車男』のOPを観ただけでは「ううむ何やら懐かしい匂いと手触りのする映像だ…」という感想しかなかったのだが、相互リンクしていただいている「どんぐりの過剰な王国」の2号さんの日記でダイコンアニメの映像を閲覧できるサイトがあると知り、DLしてきた。観た。

 感動…! せいぜい4インチほどの小さなウィンドウの中でさえ、爆発する作り手の情熱が迫って来た。これをスクリーンで観たらどんなにわくわくするだろう。20年以上前の映像なので、もちろんCGはない。100%セル・アニメーションだけれど、ここには「日本アニメ独特のテンポ感」とでも呼ぶべき何か、現代の作品がひょっとしたら失くしてしまっているような何かが詰まっていると感じた。
 こういうアニメーションを観たいなあ、としみじみ思った。けれど個人的な印象では、こういう作品を創り得る時代はもう終わってしまったのかもしれないと感じて残念である。アニメーターの待遇が余りに向上しないものだから、アニメ業界に進む人が減ってしまって、「独特のアニメーション作法」や作画・動画技術を持った人材が充分な数だけ育っていないのではないかと思うのだ。特殊技術の一般化としてモーション・キャプチャ等のCGが出て来たのだろうけれど、よっぽど気を使って作らないと「あ、ここCGだ」と判ってしまう場合も多い。まだまだCGは「生身」になっていない気がする。

 もちろんああいったテンポ感を出すために必要なのは動画枚数だけではないだろうけれど、高度な技術を持ったアニメーターが寄ってたかってアクションに凝りまくるというのは、やっぱり今となっては贅沢過ぎる状況なのかもしれない。とは言え、「この時代の日本アニメは凄かったねえ」と懐古されるだけになってしまうのは余りに哀しいので、何とかこういう熱気ごとの技術を継承して欲しいなと思う。
 それにしてもこの頃の「夢の乙女」って、どこまでもクラリスだったのだなあ。

 曲もいかにも80年代洋楽という感じで本当にわくわくする。あの頃がセーシュン時代だったから、というだけでなく、やっぱり今聴いても本能的な何かに訴えかけて来る楽曲が多かったような気がする。今80年代ポップスが大人気だというけれど、それはわたしに取って「さもありなん」な状況である。
 真面目にラジオのエア・チェックをしたりCDを聴いたりしなくなったからということももちろんあるだろうが、今のヒット・チャートで常連となっている曲にはどうも馴染めない。ヴァン・ヘイレンの『ジャンプ』やスターシップの『シスコはロック・シティ』みたいな曲が、たまには出て来ないかなあと思うのだが…。
 もしかしたらあと20年後くらいには「2000年代の曲って良かったねえ」と再ブームになったりするのだろうか。どうもそういう気がしない。

 他にも不思議とそういう現象はあるもので、例えばクラシック・ジャンルでも、圧倒的に人気なのは何故か浪漫派だ、と思う。もちろん他の時代の曲にもちゃんとファンは居るのだけれど、浪漫派の曲には、何かこう「生理的にフィットするもの」があるように感じる。あくまでもわたしの印象であり、まったく見当違いな感覚かもしれないけれど。
 年月が流れ、名曲だけが淘汰を受けて残っているということはあるだろう。でもわたしの耳には「訳ワカラン」と聞こえることの多い現代曲が、例えば100年200年経った時、人々の圧倒的人気を集めているか想像すると疑問が残る。やっぱりその頃にも、相変わらず人気なのは浪漫派やその近辺の音楽だったりするのではないだろうか。

 ポップスにしろクラシックにしろ、80年代の曲が人気だったり浪漫派が人気だったり、というのは聴き手たる消費者だけではなくて、作曲する側にも周知のことだろう。それでも「80年代風」とか「浪漫派風」とかの曲を作る人があまり居ないのは、アーティストとは常に最先端を走る人々だからなのだろうなあ。わたしは最先端の感覚からはもう振り落とされて久しいのだが(汗)。
 「あの頃のアレコレは良かった」と思うのは老化の第一歩だと言うけれど、そういう懐古趣味的なものだけではない「輝くもの」が、80年代洋楽ポップスとか浪漫派とかダイコンアニメとかにはあったと思う。少なくともわたしの感覚にフィットするのはそういうものなので、思いっ切りワガママに「ああいうのがまた出て来るようにならないだろうか」と期待し続けてしまうのだった。




07/19 美女と野獣

2005/07/19 15:59
 本放映を観逃して死ぬほど悔しい思いをしていたN○Kスペシャル『宇宙 未知への大紀行』が、CATVの某チャンネルで再放送されたのだった。ラッキー! このチャンネルでは今月は「宇宙特集」をやっているので、他にも、NASAの責任者が著した本を元にした『月をめざして』というドキュメンタリーや、何故かキワモノ的に「UFO〜あなたの知らない真実」などのシリーズも組まれている。
 他のチャンネルでも、遥かな惑星「ダーウィン4」へ無人探査機が出掛けて行き、そこに住む不思議な生き物たちをレポートするというコンセプトの『エイリアンプラネット』というSFシミュレーション映画(?)も放映され、暇を見つけては鑑賞するのが大変なのだった。けれど特に『宇宙 未知への大紀行』はずっと前から狙っていた作品なので、そうそう逃す訳には行かないのである。

 なぜいきなりスペース特集なのかと思ったら、どうも『EP3』のプロモ関連かもしれない。スター・ウォーズの世界に登場するガジェットが現代科学に及ぼした影響を探る「サイエンス・オヴ・スターウォーズ」やら、ジョージ・ルーカス監督へのインタヴューと旧3部作の裏側に迫るドキュメンタリーを組み合わせたシリーズやら、いろいろ目白押しだった。どれも心惹かれはするものの、とても全部を観ている時間はない。
 UFOに心ときめかせるのは小学校で卒業できたし、『スター・ウォーズ』関係のドキュメンタリーはチェックしだすとキリがない。とりあえず今回は『未知への大紀行』と『エイリアンプラネット』、『月をめざして』に絞った。もし今後『スター・ウォーズ』関係のドキュメンタリーを再放送することがあったら、その時こそ観ることにしよう。なんだかんだ言いつつUFO関係にも未練は残るのだが。

 遥かな惑星「ダーウィン4」に住んでいると思われる動物たちはこんなだろうと想像する『エイリアンプラネット』には、時折、関係各方面の著名人が登場していて面白い。かのスティーヴン・ホーキング博士や、お馴染みジョージ・ルーカス監督も出て来たりする。双子の探査機の片割れが行方不明になり、その足取りを辿るというややミステリめいた作りになっているのも面白い。機会があったらまずはお勧めである。
 しかし今月の目玉は何と言っても『宇宙 未知への大紀行』全9話であった。こういうドキュメンタリーを作らせたらやっぱり凄いN○Kが、最新CGを駆使して宇宙の流れを丁寧に解説した、宇宙ファンなら必見のシリーズなのである。まだ全部を観終わっていないのだが、これまでのところ印象深かったのが第6話「もうひとつの地球を探せ」だった。

 文字通り天文学的数字に昇る恒星が宇宙には存在し、中には太陽に似た星もたくさんあるのに、今のところ地球型惑星を持つ星系は見つかっていないらしい。コンピュータ・シミュレーションを通じてその理由に迫ったところ、恒星が誕生し、その周辺に惑星系が形成される時のガスや塵の量にポイントがあるのではないか、という説が出て来たという。
 ガスや塵の量がうんと多いと、太陽系の木星や土星のような巨大な惑星がたくさん生まれてしまう。巨大惑星は当然その引力も非常に強いので、1つの惑星系に3つも4つもそういう星があると、星系内全惑星の軌道が干渉を受けて不安定になってしまう。内側の軌道を巡る小さな星など、うっかりすると星系外に弾き飛ばされたり親星に突っ込んだりする可能性もある。何とか星系内に踏み止まったとしても、軌道は極端な楕円軌道を描くと考えられる。近日点と遠日点では環境が激変するので、恐らく生命が発達することは出来ない。

 ではガスや塵の量が少なければいいかというとそうでもないらしい。一定以下のガスや塵の量だと、今度は火星や地球のような小型の惑星ばかりが生まれる。そういう星は引力が弱いので互いに軌道に干渉することはないだろうが、今度は外宇宙から降って来る隕石群の直撃を受けやすくなってしまう。太陽系の場合、木星がある場合とない場合をシミュレートすると、地球に隕石が衝突する確率は実に1000倍も違うのだという。
 恐竜を絶滅させた主な原因は巨大隕石の衝突だと考えられているが、そのクラスの隕石が6000万年に1度降って来るのと、6万年に1度降って来るのとでは、生命の進化の時間的余裕がかなり違うらしい。6万年に1度壊滅的な打撃を受けるのだとすると、例えば知的生命体が生まれるまでには何度も何度もやり直しをせねばならないし、もしかしたらそういうレヴェルまで到達できないかもしれない、という。
 他にもいろいろなラッキーが重なって、地球という星は今ここに在るらしい。わたしは物理に疎いので、ほぼ丸々放映された内容を鵜呑みにしているが、生物や化学の実験と違って宇宙関係のシミュレートがそうそう出鱈目ということもあるまい。地球型惑星なんて宇宙に掃いて捨てる程あるのかと思っていたが、どうやらそういう訳でもないらしい。ちょっと感心してしまったのだった。

 ともあれそういう諸々の事情で、太陽系の外に地球型惑星を探す時には、まずその星系に木星型の巨大惑星があるかどうか、あるとしたら幾つあるか…をチェックすると見つけやすいかもしれない、という。でっかい惑星に守られた、水の滴る美しい小さな惑星が一対なのである。ヴィジュアルとして、ついつい「宝石のように美しいお姫さまと、身を挺して姫を守る頼もしい騎士、もしくは巨大な猛獣や使い魔の野獣の図」が浮かんでしまった(汗)。でもそういうヴィジョンって、何かこう、個人的にツボなのである。一言で言うと「萌え」(汗)。
 美女の周りには野獣が付き物というのは、宇宙規模でもやっぱり変わらぬ真理なのだろうか。太陽系の場合、あの堂々たる木星を「野獣」と表現するのは少々失礼かもしれないが、地球と木星を並べてみると青緑色とキャラメル色が良く映えて何ともお似合いなような気がして来るのだった(阿呆)。
 こういう点に萌え萌えしていると、また家人に呆れられるような気もする。「美女(地球)と野獣(木星)」に萌えるなんて我ながらどうかとも思うけれど、何せここにあるのは宇宙的ロマンス(?)である。どんなに一生懸命に姫を守っても、所詮2人の軌道は交わることはなく、永遠にすれ違ってくるくる回るのみ。泣かせるではないか…(つくづく阿呆)。




07/20 人間の見分け方

2005/07/20 15:07
 対応するキャッシュ・カードやクレジット・カード、IDなどは1枚も持っていないのだが、本人確認という点で手っ取り早い生体認証については興味津々である。どういう方法でも「誰かと偶然同じパターンだった」というトラブルは起こり得ないと仮定しても、偽造の危険性は無視する訳に行くまい。顔面とか耳殻、指紋や掌紋や声紋だと、比較的簡単に偽造されてしまいそうな気がする。虹彩パターンもカラー・コンタクトを嵌めたら見分けられないだろうし、応用編として網膜パターン対応カラー・コンタクトなんてのも出て来るかもしれない。
 そうすると今のところ有望なのは、指先や掌の静脈パターンを使う方法だろうか。ターゲットの静脈パターンを入手して、指模型とか掌模型を丸ごと作られたらあるいは破られてしまうかもしれないけれど、当面そういう心配はしなくて良さそうである。ダメ押しするなら温度・脈拍センサなども併用すればいい。スパイ映画に出て来るような国家的機密を盗み出そうという特殊ケースなら、何とかしてそういう関門を突破できるような精巧な模型を作ることもあり得るが、個人レヴェルのIDや各種カード程度ならそれで充分だろう。
 まだまだコストが大き過ぎるようなので普及までには時間が掛かりそうだけれど、面白そうだから早く体験できるようにならないかなあ♪ などと楽しみに待っているのだった。

 別人に成り済ますと言えば思い出すのは『ガタカ』である。受精卵の段階で遺伝情報を洗い浚いチェックし、容姿・能力・健康面で少しでも優れている個体だけを誕生させる世界。不幸にして何らかの「欠陥」を持って生まれてしまった個体は「不適格者」として死ぬまでうだつの上がらない人生を送らねばならない世界。
 『ガタカ』では個体認証は、主に血液データと尿のデータで行なわれている。指紋・虹彩パターンによる認証もひょっとしたら出て来たかもしれない。不慮の事故で身体の自由を失ってしまった「適格者」の人生を、宇宙に出る夢をどうしても捨てられない「不適格者」の主人公が買い取り、文字通り生死を賭けた努力でエリートとしての日々を送る、というストーリーである。
 あの作品が作られた当時、まだ生体認証はそれほどポピュラーな技術ではなかった。今のように静脈認証が本命、という流れが出来てしまった後だったら、「適格者」に成り済ますのも苦労するだろうなあ。血液や尿のサンプルは採取できるが、指や腕を取り外して持って行く訳にはいかないんだし。

 主人公が予定通り宇宙へ旅立つことは出来るのか。ミステリの要素もあったりするので、最初から最後まで本当にハラハラドキドキの素晴らしい作品である。ラスト・シーンへ至るシークエンスでは爆涙必至、オープニング映像の意味するところを悟って改めて涙ボロボロ。役者さんも映像も音楽も素晴らしいので、もしも未だご覧になったことがない人は幸いである。痛いような苦しいような、それでもやっぱり幸福なような、あの感動をこれから改めて味わえるのだから。
 わたしが思って(願って)いるよりも、どうやら「生まれつき」に支配される要素は多いらしいが、それでも「遺伝情報だけですべてが決まるのならば、いっそどれだけ楽だろうか」と思わずに居られない。「努力さえすれば不可能などない」と言い切ってしまうのも、またある意味アンフェアなことだろうが。どんなに頑張ってもダメなことってあるし、それを「努力不足」と決め付けられるのは大層哀しい。わたしの場合は例えばクルマの運転に対する恐怖感なので、あまり切実味がなかったりするのだが。

 ところで何故今さらそんなことを思いついたかと言うと、いつも通りきっかけは非常に些細な阿呆らしいことである。何のことはない、今日買い物に出掛けた時、助手席に積んだ荷物が同乗者と認識されてしまって、シート・ベルトの警報が鳴ってしまったのだった。どうも10kgかそこらの加重で「同乗者アリ」と認識するらしい。牛乳の1リットル・パックと野菜類、肉・魚類、豆腐や漬物などの水っぽい品々を手提げ袋2つ程度に一杯にすれば、10kgなんてすぐである。
 帰宅しようとスーパーの駐車場を出発する時、助手席シート・ベルトが掛けられていませんというアラームがちかちかしていたのは気付いていたのだが、面倒臭いのでそのまま放置した。一定以上のスピードを出したら警告音がピーピー鳴り始める。うるさいなあと思いつつ無視していたら、敵もさるもの、警告音は我慢できないまでに「ピピピピピピピ!」とグレード・アップした。生意気な!

 結局根負けして助手席のシート・ベルトを掛けたのだが、何だか機械に負けたようで無闇と悔しいのである。
 買い物が重たい時は後部座席に積めば良いのかもしれないが、助手席にさっと積んでさっと降りられる手軽さは諦めたくない。助手席に「荷物飛び出しストッパー」というスグレモノが付いているくらいだから、もちろん荷物置き場としての用途も想定されているハズである。乗っているものが人間なのか荷物なのか、重量以外にも見分けるセンサを付けるとしたらえらくコストが掛かってしまうだろう。新型ヴィッツクラスの装備にそこまで望むのは過ぎたこととは思いつつ、やっぱりどうも釈然としないのだった。
 アラームに叱られて荷物にシート・ベルトをする羽目になったのだが、実際やってみたら案外良かった。ブレーキを踏む時に重たい手提げ袋が傾いて中身が零れてしまいがちなのだが、「荷物飛び出しストッパー」だけでは防止し切れないそういう転倒を、シート・ベルトがきっちり抑えてくれたのである。傍目には「荷物にシート・ベルト? 阿呆みたい」なのだが、手提げの転倒を気にせず運転に集中できるのはありがたい。今後は最初からシート・ベルトを掛けることにしようと思う。




07/21 アプローチの手管アレコレ

2005/07/21 23:33
 ダイコンアニメを観て感激してから、また『電車男』の問題のオマージュを確かめたくなった。ちょうどいいやと今日放映の第3回をかけてみた…のだが。あれ? あのアニメーション映像ってこんなに短かったっけ? アタマにほんのちょっとそれっぽい映像と『Twilight』が流れただけで、ほんの数秒で終わってしまった。確かに先週もうちょっと長いのを観たと思ったのだが、ひょっとするとテーマ曲でアタマがトリップしたのだろうか。
 『電車男』のドラマ自体は、既に例のまとめサイトを読んでしまっているのでそれほど感激的ではない。エルメスさん役の伊東美咲さんが初々しく、映画版より好みかもしれない。電車さん役の伊藤淳史さんは、役者さんとして意識したのはこの作品が初めてなのだが、おどおどぶりが(多少オーヴァー・アクション気味とは言え)面白かった。ハマリ役な気がする。
 それにしてもオープニングにこの曲を選ぶとは素晴らしいセンスだなあ…。聴いているだけでワクワクしてしまう。

 「ネットの住人たち」は少々デフォルメされ過ぎかもしれない。チャット状態の場合、特に祭の時はこのくらいヒート・アップするだろうけれど、個人個人がちょっと「いかにも」な造形をされていてヒくのだった。まあ、ちゃねらーのヴァリエーションは、実際このくらい多岐に渡っているのかもしれないが。事実は小説よりも奇なり、と言うし。
 ともあれ、何だかんだ言いつつ目が離せなくて観ちゃっているあたり、まさに「思うツボ」。我ながらミーハーだなあと思うけれど、ドラマとして面白いのだったら、まあ、いいか…。

 先日ウィル・スミスの『最後の恋の始め方』を観に行ったのだが、実はコレ、ハリウッド版『電車男』ではないかと思ったのだった。モテない男が高嶺の花に恋をして、何をどうしたら良いものやらサッパリ判らずウロたえる。『電車男』ではネットの住人たちが、『最後の恋の始め方』では凄腕の恋愛コーディネータが、手取り足取りアドヴァイスする。日本では数知れぬ「名無しさん」たちが助け舟を出すのに対し、アメリカでは「プロフェッショナル」が登場する辺りにお国柄を感じる。
 いろいろな紆余曲折を経た後、物語はお約束通りハッピー・エンドを迎える。ありがちな展開と言えばそうなのだが、ベタだろうがやっぱりこういう物語には心惹かれるものなのだ。ドラマ版『電車男』の場合、電車さんに触発されるサブ・キャラ(ネットの住人)が出て来たりするのも、お約束とは言えそれなりに効果的なエピソードの膨らませ方だと思った。

 電車さんがアプローチ方法その他をいろいろアドヴァイスしてもらっている様子を見て、つい某生命保険会社のCMを思い出した。帰宅しようと会社のエントランスまで出て来た可愛らしい女性社員が、突然の大雨に途方に暮れている。彼女は傘を持っていないのだ。そこへ同僚と思われる男性がやって来て、折り畳み傘を示し、良かったら一緒に帰りましょうと誘う。ほのぼのと流れる空気。と、男性の上司がズカズカと通りかかり、彼はつい、傘を上司に貸してしまう。
 予想外の展開にショックを隠し切れない彼女の表情に、彼は慌てて「ち、違うんだ、実は…」と言って、カバンからもう1本の折り畳み傘を取り出す。にっこりする彼女。そして2人は仲良く肩を並べて雨の中を歩いて行くのだった。バックに流れる『雨に濡れても』が何とも効果的である。

 ウチではこのCMが結構な話題になった。そして状況や設定についていろいろ想像した結果、この1幕は「仕組まれたものではないか」という結論に達したのだった。つまり、男性社員と一見ガサツな上司は実はグル。お目当ての女性社員と親しくなる切っ掛けがどうしても掴めない男性が、いかなる成り行きでそういうことになったのかは不明だが、上司の後押しを借りることになったのである。女性にしてみれば、一端はダメになりかけた「駅まで傘に入れてもらえる」状況が、男性の機転でやっぱり実現しましたということになれば、スムーズに運んだ場合よりも印象は強烈に残るだろう。
 この上司もなかなかの演技派だとか、これでこの女性社員はすっかり男性社員に打ち解けてしまっただろうとか、好き勝手な感想を言っていたものだった。

 後日、家人が問題のCMについての公式ページを見つけて来た。覗いてみてびっくり、どうやら元々の設定はだいぶ違うことになっていたらしい。一番違和感があったのは、傘がダメになりそうな時、それからもう1本の傘が出て来た時の女性社員の表情についての解釈だった。ウチの2人は「傘に入れてくれると約束したのに、上司に媚諂う頼りない人」→「いざと言う時にもう1本の傘を用意している用意周到な人」という気持ちの移り変わりだと思った。
 公式ページの演出からすると、女性のやや複雑な表情の変化は「2本持っているのならば、最初から両方出せば良かったのに。わざわざ1本だけ出して相合傘をしようなんて、好いたらしい人…」ということだったのだそうだ。言われてみればその通り。しかしそれではどうにも面白くない。やっぱり男性社員と上司はグルだった、というシチュエーションの方が面白いような気がするので、ウチでは相変わらずそういう設定で通っているのだった。
 出来試合がバレたらややこしいことになるだろうが、アプローチ方法としてはなかなかの出来ではないか。そしてそんな状況を想像しているウチの2人も、つくづく暇人なのである。




07/22〜23 妹一家来訪

2005/07/23 11:09
 目に入れても痛くない、という対象があるとすれば、それはわたしの場合、姪っ子2人である。家人も(ある意味)可愛いと言えば可愛いのだが、いかんせん目に入れるには大き過ぎる(汗)。その姪っ子たちを連れて、妹たち一家が、母のマンションに遊びに来ることになった。
 当初はご夫君の出張に合わせてやって来る手筈だったのだが、急遽出張そのものが流れてしまった。ひょっとするとご夫君は気の毒にも居残りか? と思ったのだが、幸い一家揃ってお出ましになった。とは言え妹と姪っ子2人が2週間ほど滞在するのに対し、ご夫君は明日の夕方には関西に帰ってしまうそうである。10日以上も放置しておいて大丈夫なのだろうか。

 ウチでそういうことをすると、まず間違いなく家人が拗ねてしまう。食事についてはきっと隣家の義母にお願いするだろうから、実際に困ることはないに違いないが、どちらにせよ後を考えると怖くてとても実行には移せない。イギリスにまた行きたいのだが、家人の休みはそんなに長く取れないし、家人は「イギリスなんてメシが不味いからイヤだ」と放言して憚らないのだ。行くとしたら単独旅行しかない。
 ともあれやや問題児の傾向のある姪っ子1号(わたしの子供の頃にそっくりという説アリ)と、明日でやっと1歳のお誕生日を迎える姪っ子2号の面倒を、ほぼ1人でずーっと見ている妹も、たまには心底骨休めをする必要があるのだろう。去年の10月に会った時よりもまた痩せていたので、育児とはそんなに大変なのだなあと感心したのだった。

 15時くらいに新横浜に到着するのぞみに乗るという予定なので、最寄の駅付近に来たらわたしの携帯電話に連絡を入れてもらい、ウチのクルマで迎えに行くことになった。母はちょうどその時間、レク・ダンスの練習で不在なのである。マンションの鍵を持っているのもわたしだけだし、妹は駅からマンションまでの道を覚えていない、と言う。徒歩で迎えに行ってもいいけれど、乳幼児2人と大荷物を抱えては、たかだか10分の道のりも遠かろう。
 問題は、わたしが他人を乗せて運転することが滅多にない、ということだったりする(汗)。単独運転で事故って死んでも自業自得だが、他人さまを道連れにするのはどうだろう、と思う。責任の重さがプレッシャーとなり、ただでもガクガクブルブルな運転が余計に縮こまったものになる。やむを得ず母を乗せる時などは「後部座席の右側、バック・ミラーの死角になるところに座り、決して話しかけないように」と厳命してから運転するのである。
 母1人でさえそんな状況なのに、妹夫婦に加え、年端も行かない姪っ子2人の命運を握るとなれば、プレッシャーもいや増すというものだった。

 ウチ〜駅〜母のマンションまでの道のりはまだそれでも馴れ親しんだルートなのでマシとしても、問題はマンションの駐車スペースが空いているか、だったりする。来客用スペースが数台分あることはあるのだが、夏休みに入ったこの時期、満杯になっていることは予想に難くない。マンションに着いたはいいが駐まれない、ということになったら、わたしはひょっとしてパニックを起こしてしまうのではないだろうか(阿呆)。
 そんなこんなを早手回しにグルグルと考え、どうしようどうしよう…と無限ループに陥っていた。段取り通り駅前で妹一家と合流した時も、自分では平静なつもりだったのだが、おそらくかなり逆上気味だったのだろう。ベビー・バギーを積むためにトランクを開けようとしてどうしても開放レヴァーが見付からず、ボンネットを開けちゃったりした。結局一端キイを抜いてトランクを開けたのだが、良く良く考えると、イグニッションにキイが刺さっている状態であれば、トランクはボタン1個でいつでも開く仕様なのだった。
 今さらそんなこと思い出してもなあ…(とほほ)。

 余程蒼褪めた顔をしていたのだろう。トランクの1件で「これはヤバい」と感じたのか、妹の夫君は「良かったら僕運転しましょうか?」と言ってくれた。前以って「ご夫君に運転してもらおうか?」「そんなバカなことせんでキミが自分で運転せい」という会話がウチで交わされていたのだが、もうこうなったら恥も外聞もない。コレ幸いと全権委任する。
 妹が「そんなにあからさまにほっとした顔しなくても…」と呆れていたのだが、案の定マンションの来客用スペースは満杯だったので、代わりに運転してもらえて本当に良かった良かった。運転に関しては3姉妹全員頼りにならず、末の妹などは引越しで通知が届かなかったとかで更新を忘れた挙句、期限切れから1年以上も放置して免許をパーにしてしまった。中の妹も身分証明書以上のものではない。運転には向き・不向きがある。ヘボ・ドライヴァーにも優しい社会ならばともかく、トロいクルマを目の敵にする家人のような人間は少なくないに違いない。何故そんな辛い思いをしてまで無理に運転せねばならないのだ(ということにしてしまおう)。

 という訳で、これから2週間、姪っ子たちと遊べるしんどくも楽しい日々なのである。姪っ子1号の「まとり(仮名)ねえちゃん遊んで〜♪」攻撃に、果たしてわたしの体力はどこまで付いて行けるのだろうか。




07/24 価値ある100円

2005/07/24 16:03
 なんでも東京では13年ぶりだそうな大き目の地震発生当時、わたしは海老名駅のプラットフォームに向かって階段を降りているところであった。屋根が突然ガタガタ鳴り出したので、誰かが上を走り回っているのかと一瞬思った。よく考えたらそんな状況はヘンだし、周囲の人々の様子もおかしい。そのまま階段を降り切って立ち止まったら、地面が揺れているのがやっと判った。なんだ、地震じゃん。結構大きいじゃん。
 こりゃ困ったな、たぶん電車が止まっちゃうだろうと危惧した通り、乗る予定だった2分後の小田急線・急行新宿行きは来なかった。とは言え割合すぐに動き出したとアナウンスがあり、11分後の16時48分には車内の人となることが出来た。時速25kmしか出せないとかで超ノロノロ運転だったが、それでも30分後には相模大野駅に到着し、家人にクルマで迎えに来てもらって無事帰宅することができた。都内では大混乱だったそうなので、すぐに動き出してくれてラッキーだったと小田急にちょっと感謝する。

 それにしても地震の発生があと30分早かったら、わたしは映画館でちょっとしたパニックに陥っていたかもしれない。なにせ観ていたのがスピルバーグ監督の『宇宙戦争』で、これがメチャメチャ怖かったのである。映画館という暗く締め切った空間で誰かがパニックを起こしたら、それが伝染して大変な騒ぎになるということも有り得る。挙句に誰かが怪我でもしてしまったら…。
 そんなことの原因にならずに済んで本当に良かった。最大震度5強ということで、怪我人も多少出ているようだが、みんなすぐに治るといいなと思う。

 晩御飯は母と妹夫婦、姪っ子2人、ウチの2人で焼き肉を食べに行こう、という予定になっていた。わたしは無事合流できたけれど、居所が掴めなくなってしまったのが妹プラス姪っ子2人。横須賀在住の高校時代のお友達のところへ遊びに行っているのである。焼き肉屋さんの予約時間は19時。地震発生後の回線規制で携帯電話が繋がりにくくなっている上、そもそも妹の携帯電話の電池切れが近いとかで、ちょっと掛けて来てはすぐに切れてしまうのだった。
 公衆電話から掛けるように伝えたが、良く考えると乳幼児2人を抱えて公衆電話を探したり、ひょっとすると長蛇の列になっている順番待ちをしたりするのは結構しんどいかもしれない。どうにかこうにか意思疎通を図り、妹たちが横浜駅に居ることが判明した。相鉄線が動いているようならそれに乗って、比較的ウチから近い駅で降りてくれと指示をする。途中渋滞は覚悟しなければならないが、それでも何とかランデヴーできるだろう。わたしと家人が迎えに出たのが18時20分である。

 焼き肉屋さんには電話をして、予約時間を30分後にずらせてもらうことが出来た。行って帰って1時間10分。母と妹の夫君が別働隊として自力で焼き肉屋さんに向かってくれるなら、現地集合19時半で何とか間に合いそうである。もとよりウチのクルマに全員は乗れないから歩いて行こうねと言っていた徒歩10分のお店なので、特に無理なこともないだろう。
 昔のホーム・グラウンドだったF駅で無事妹たちを拾うことができてホッと一安心。大混雑の駅を歩き回らされてさぞかしグズっているだろうと予想された姪っ子1号は、妹を困らせることなくずっといい子だったらしい。ご褒美として17アイスのヨーグルト・シャーベットを舐めながら待ち合わせ場所に立っていた。豆台風とかサル娘とか散々言われて来た姪っ子1号は、やっぱりお姉さんとなってずいぶん状況判断が出来るように成長したらしい。じーん(伯母バカ)。

 帰る道々、妹から結構大変だったらしい1日の様子を聞いた。地震がなくても、そもそもの最初からトラブル続きだったらしい。その主たる原因が携帯電話の充電忘れだったので自業自得ではあるのだが、お友達との待ち合わせ前に電池が切れ、ランデヴー・ポイントですれ違ってしまったという。このままでは折角横須賀まで行ったのに、お友達と会えないまま帰るハメになる。焦る妹。どうしようどうしよう…と考えていたら、本人曰く「近頃まれなほどのホームラン」的な名案が浮かんだ。
 そうだ、その辺のゲーセンかコンビニで、携帯電話の充電サーヴィスをやっているのではなかったか。幸いゲーセンがすぐそこにあり、めでたく10分100円の充電を完了することが出来た。もちろんフル充電には程遠いが、携帯電話は無事に蘇り、お友達とも連絡が取れて合流に成功したらしい。めでたしめでたし。

 その後地震があってまたまた携帯電話の電池切れを心配するハメになるとは思っていなかったが、こんなことならば、もう10分充電しておくのだった、と妹は語った。何にしろこの充電に使った100円は、ちょっと他には考えられないほど価値ある100円だったよね、便利な世の中になったよねえ、としみじみしている。
 とは言えゲーセンでの充電には落とし穴もあって、充電時間中、とりあえずゲーセンの中に居なければならないというのはまた別の意味でピンチだったらしい。そこらじゅうに設置されているゲーム機が、賑やかな音と光で姪っ子を誘惑するのである。何もしないで10分待たせるのも可哀想だしと、結局1回200円のクレーン・ゲームで2回遊んでしまった。もちろん景品は取れないまま400円はあっという間に消える。何という価値の薄い400円だったことか…と、妹は少々悔しそうに語るのだった。

 物は考えようで、お友達との待ち合わせやウチの2人とのランデヴーにこれだけ活躍することになる携帯電話の充電分とすれば、10分500円だったと思えば虚しさもマシにならないか、と言ってみる。そーかもねえ、と妹。そしてあまりに呑気な姉妹の会話に、家人は大笑いしながら運転を続けるのだった。
 調べてみたら最近コンビニでは、乾電池で充電できる充電器が売られているらしい。もちろん充電しながら携帯電話を使うことも可能。妹が彷徨っていた付近のコンビニにそういうシロモノが置いてあったかは不明だが、一番安いのだと580円で買うことが出来るようである。この話、妹に教えておくべきだろうか。少々悩んでしまう。




07/25 ダメ元でリクエスト

2005/07/25 12:59
 以前日記に書いたことがあると思うのだが、「カルピネッロ」という塗るタイプのパルミジャーノ・レッジャーノに嵌まっている。とりあえず乳製品を摂り過ぎなのとナチュラル・チーズは高価いのとで、できるだけ臭いチーズは我慢しようとしているのだが、これだけは…と諦め切れないのがカルピネッロなのである。小○井などからも「塗るチーズ」が出ているけれど、風味もコクもカルピネッロには遥か遠く及ばない。
 「塗るチーズ」は100g入り250〜300円程度なのに対し、「カルピネッロ」は250g入りが1400円はする。ネットであちこち調べたところ、底値1180円というのがあるにはあったのだが、どこも売り切れであった(涙)。お気に入りの「オーダーチーズ・ドットコム」でも常時取り扱いをしている訳ではない。先日ネット・オーダーした時リクエストを出したら「申し訳ありませんが常時取り扱いは無理です」と断られてしまった。

 いつでも入手できる訳ではない上、ネット・オーダーの弱点はやはり送料である。「楽天」などのネット・ショップでは購入金額によって送料無料の特典があったりするが、ナチュラル・チーズ系のショップではその手の特典はあまりない。あったとしても「1万円以上ご購入の場合」とかだったりするのでほぼ無意味である。モノがチーズだけに、大抵冷蔵品扱いなので、送料もなかなか馬鹿に出来ない。送料に800円以上も払うのならば、最寄のスーパーで半額の「サンタンドレ」をセコく狙う方がいいような気になって来る。
 「カルピネッロ」は食いたし値段(プラス送料)は高価し、どうしようかなーと考えた挙句、駄目で元々と、最寄のスーパーの「お客さまの声」コーナーにリクエストを出してみることにした。割合にチーズ・コーナーの充実している店で、わたしは「ブルサン」のアイユも「サンタンドレ」もここで初トライしたのである。ひょっとするとひょっとしないとも限らない。

 用紙を専用箱に投函したことも忘れていたのだが、先日、携帯電話に知らない番号から電話が掛かって来た。何だろうと訝しみつつ出てみると、例のスーパーの店員さんだと名乗った。「リクエストいただきましたカルピネッロ、近いうちに取り扱いを開始いたしますので、どうかよろしく御贔屓のほどを」と言う。無理だろうなと諦めていたけれど、言ってみるものではないかっ♪
 おそらく物は試しで仕入れてみるパターンだろうと思う。だから余りにも売り上げが悪ければ、早々に売り場からまた消えてしまうに違いない。よし、いつぞやトロピカル・アイランド印のマンゴー・ジュースの二の舞を踏まないためにも、ちょっとだけ張り切って買ってみることにするか。まあ、値段にもよりけりだけれども。

 そう思ってチーズ・コーナーを覗きつつ数日、とうとうカルピネッロが売り場に並んだ。遠目にもはっきり判る黄緑色のパッケージ、割に目立つところに6個が鎮座している。気になるお値段は幾らだろう。ネットで見つけた底値の1180円は期待してはいけないだろうが、定価(と思われる)1400円をちょっぴりでも下回っていると嬉しい。値段によっては買って帰ろうと思いつつコーナーに歩み寄り、値札を覗き込んでのけぞった。
 「カルピネッロ・1575円」だとう〜っ? 考えてみれば当たり前なのだろうが、どうやら販売価格には送料分がしっかり上乗せされているらしい。175円×6個で1050円、送料分とするとまあまあ妥当な額になる。やはり世の中甘くはないらしい。

 カルピネッロの賞味期限は結構長いので、半額になるまで待ってから買うという、いつものみみっちい手は使えまい。美味は美味だがこうなるとやはり諦めるしかないのだろうか、カルピネッロ。わたしのお気に入りは、サンドイッチ用の薄いパン(全粒粉とか胚芽とかだとなお良い)をこんがりトーストし、カルピネッロをたっぷり塗って30秒、程好くしっとりしたところを齧る、というパターンである。トロットロのチーズはパルミジャーノ・レッジャーノの豊かな風味がいっぱいで、どんなに食欲のない時でもペロリと平らげることが出来るのだ。
 小○井の「塗るチーズ」におろした固形パルミジャーノ・レッジャーノを混ぜてみたりしたのだが、やっぱり滑らかさを全然再現出来ていない。加熱してみたらまた違うかもしれないが、うっかりすると分離してしまうだろうし、なかなかチャレンジしてみる勇気が出ない。ううむどうしたものか。マンゴー味のモロモロの品々のように、もうちょっと時間が経ってポピュラーになって来たら、ひょっとすると似たような製品が追随するかもしれない。そうでなくても、「ブルサン」のように頻繁に安売りしてもらえるようになるかも…。

 ともあれそんな訳で、せっかくリクエストを入れてもらえたのに、肝心の品物を買う度胸はないまま帰って来てしまったのだった(ヘタレ)。やっぱり高価いよなあ、ナチュラル・チーズ。普段は小○井の「塗るチーズ」で我慢しておいて、ごくごくたま〜にカルピネッロを奮発するというのが良いだろうか。10月まで待てば、1個1180円のネット・ショップが販売を再開するという話だし、その時まとめて何個か買い溜めする方が良いだろうか。
 悩んでしまう…(阿呆)。




07/26 行きは良い良い帰りは怖い

2005/07/26 17:10
 姪っ子たちと遊びたいけれど、日曜日にはやらなければならない諸々も溜まっていたし、月曜日はバレエ教室のために晩御飯を早く作っておかなければならないし…などなど、ホイホイと遊び呆ける訳には行かなかった。特に月曜日の晩は、先に帰宅して独りで晩御飯を食べている家人がやはり微妙〜に機嫌が良くない。出来るだけ好物を用意するようにしたり、部屋をいつもより片付けたりして点数稼ぎを試みるので、日中は結構てんやわんやなのである。とても遊びに出掛ける余裕はない。
 今日こそは絶対母のマンションに行って姪っ子と遊ぶぞ、と思っていたのだが、何というタイミングの悪さ、台風が接近しているという。徒歩5分の場所なので、別に行くだけなら特に苦労もしないのだが、問題は帰りである。夕方頃に関東〜東海へ上陸すると予想されているようだから、下手すると暴風雨の中を歩かねばならなくなるかもしれない。さすがにそれはヤだな、と思った。

 姪っ子と遊ぶとするとどうしても長っちりになるので、どしゃ降りになってからやっと「あ、しまった」と気が付くのがオチという気がする。姪っ子が「まとり(仮名)ねえちゃん、帰っちゃイヤだ〜」とゴネたら、それを振り切って帰途に付ける自信は到底ない(阿呆)。晩御飯の支度もあるので、何はどうあれ適当なところで帰らねばならないのだが。
 いっそ今日の晩御飯は母のマンションで4.75人で食べることにしてしまおうか、とちらりと考えたものの、そうするとマンションまではクルマで行っておかないとならない。帰宅時にどしゃ降りだったら駅まで迎えに来てね、と家人が朝言い置いて出掛けたからである。しかしマンションの来客用スペースが空いているかどうかは甚だ怪しく、もうこの辺りで考えるのが面倒臭くなって来る。
 いいや、寂しいけれど、姪っ子と遊ぶのは明日にしよう。我ながらヘタレであるけれど。

 そもそもこの時期は、毎朝家人を駅までクルマで送り届けるのが日課となっている。通年で「雨が激しく降っていたらクルマ」が暗黙の了解事項なのだが、これに夏は「暑いからクルマ」の条件がプラスされるのだ。正直なところ、歩いて10分足らずの道、暑いくらい何やねん、と思う。わたしは買い物に出たりする時、大物を買う予定がある時以外は真夏でも歩いている。そう反論してみるのだが、自前の脱げない肉襦袢(汗)を着込んでいる家人にはその10分が堪らないらしい。
 駅に着くまでに汗だくになってしまう、仕事に出掛けるんだから多少はいいではないか、と言う。「仕事だから」というのが体のいい免罪符になっているような気もするが、そう言われるとこちらも気の毒になって、ぶつぶつ文句を垂れつつもクルマを出してしまうのだった。その代わり「送り3回で肩揉み1回」という交換条件を付けてはいるが(←セコい)。

 日記を書いている17時現在、雨はほとんど降っておらず、台風なんて嘘みたい、と思える。こんな調子ならば尻込みせず、マンションに遊びに行って思う存分姪っ子と戯れるのだったと後悔したがもう遅い。流石に今から出掛けるのもマズかろう。晩御飯の下拵えはもう始めちゃっていることでもあるし…。
 雨降りの日のお迎えは特にキライではない。そういう場合に迎えに来てもらえたら、わたしでも大変嬉しいだろうと思う。どちらかと言うと「送り」の方がイヤである。何故かと言うと、雨の日はクルマの窓やバック・ミラーに雨粒が付いて、車庫入れに非常に難儀するからだったりする。お迎えならば駅前で家人と待ち合わせる時、自分は助手席に移ってしまえばいい。後は家人に運転を任せれば、車庫入れも家人にやってもらうことができる。

 ウチと義父母のクルマの2台分を無理矢理取った車庫なので、結構(わたしとしては)プレッシャーのかかる車庫入れなのだ。とは言え、横浜の実家の車庫(カーポートの柱が死ぬほど邪魔だった)とか、反対側の隣家(左右のマージンが各10cmくらいしかない)よりはずいぶん楽かもしれない。家人などは「この程度で泣き言を言うようでは話にならない」と言い放っている。
 重々承知していても、やっぱり雨降りの時の車庫入れには馴れることができない。ガレージに屋根があればまだもうちょっとはマシだったのだろうか。
 先日家人が、バック・ミラーに貼り付ける雨粒防止フィルムを買って来て、事態はだいぶ改善された。表面張力を極小にする加工を施してあるのだろう特殊フィルムで、貼った後はどんなに雨が降っても雨粒にならず、全面濡れた状態を保ってくれる。サイド・ウィンドウの方は相変わらずだけれど、美観から言ってもフィルムを貼る訳にも行かないだろう。

 クルマでどこへ行くにしても、わたしの場合、1.途中で道に迷わないか 2.最後の最後できちんと駐車できるか がネックとなる。カーナビが導入された現在、車庫入れにしろ縦列にしろ、駐車に伴うプレッシャーさえもうちょっと軽減されたら、多少は運転が怖くなくなるだろうか、と思ったりする。飛行機でも、離陸より着陸の方が難しいと言うではないか(ちょっと違う)。
 広い道ばかりで、交通量が少なくて、どこでもポイと乗り捨て状態で路上駐車が出来る土地だったら良かったのに。そんな土地はもちろん日本にはないだろう。砂漠のド真ん中にある町だったら実現可能かもしれないが。

 所変われば感覚も変わるということで思い出した。先日CATVで観た『幻の女性宇宙飛行士たち』という番組に出て来た、第2次大戦前の伝説的な女性パイロットのエピソードである。元は化粧品の営業をしていたその人は、ある時「クルマではなくて飛行機に乗れたら、顧客の所へ行くのももっと早くて便利になるに違いない」と思い立ち、飛行機の操縦法を習ったのだという。その後たちまち飛行機の魅力に取り付かれ、セールスは辞めてテスト・パイロットになってしまったらしい。
 アメリカの女性なので、大陸を横断するような商談の場合は、確かに飛行機は便利だろうなと思う。しかしセールス用に飛行機のライセンス、日本だったらまず考えられないオプションである。飛行機なんて、クルマよりももっと「駐めておく所」が限定されるではないか。アメリカでは、ちょっとした町の外れには、セスナくらい楽々離発着できるような滑走路が完備していたりするのだろうか。
 そもそも飛行機なんて、離陸はまあそれほど難しくないとしても、狙った所に着陸するのは相当大変そうである。究極の「行きは良い良い帰りは怖い」かもしれない。子供の頃の夢はパイロットだった。己の限界を知らなかったとは言え、良くもそんな大それた事を考えていたよなあと我ながら感心するのだった。




07/27 乗り換え前の不調

2005/07/27 23:47
 8月1日から、いよいよついにとうとう、ウチも光ファイバーのサーヴィス提供エリアに入れてもらえることになった。3年前からこの日を待ちに待っていた家人は、情報を耳にするや否や問い合わせ&申し込みを済ませ、晴れてサーヴィス開始初日の8月1日に工事をしてもらえることとなった。
 隣家に戻って来る義弟君の仕事&趣味で必要なため、隣家とウチとでそれぞれ別に1回線申し込んだらしい。義弟君が相当なヘヴィ・ユーザなので、共通の回線をシェアしたのでは「やってられん」という事態になると予想されるのだそうだ。わたしにはその辺は良く判らないが、とりあえずこれでADSLが落ちたり無線LANが不調になったりPCが単におかしかったりするたびに、隣家へ出張サポートせずに済むのかと思うとちょっと嬉しい。「繋がらないんだけど」と言われても、ADSLの不調の場合はわたしにどうすることも出来ないからである。

 立つ鳥跡を濁さずではないが、3年ちょっと使ったADSLとお別れする時には、気持ち良く光に引き継ぎたいものである。個人的には別に光に拘ることもないか、と思っている。通信機能付きワープロで1200bpsなどという速度の回線に、ダイアル・アップで繋いでいた時のことを考えるとADSLの速さは夢のようである。当時は液晶も白黒で、もちろん画像なぞ表示は出来なかった。オート・パイロットでNIFTYの会議室を巡回していると、画面を下から上にスクロールされる書き込みが何となく読めたものだ。あの長閑さに比べれば…。
 とは言え、読み込むコンテンツも当時とは比べ物にならない図体に成長した。さらに人間は贅沢な生き物だから、一端接続速度に優れたものに慣れると、ちょっとでも遅い回線にはイライラするようになる。その他諸々の事情もあるようなので、家人が光がいいと言うなら別に反対する理由もない。

 家人の談では、光の利点は速度よりもむしろ安定性だ、ということである。確かにウチの場合、ADSLは時として相当不安定であった。キイ局から多少遠いのと、その間に交通量の非常に激しい国道を挟んでいることで、回線がノイズを拾い易いらしい。さっきまで機嫌よく読み込めたページが突然重くなって「ページを表示できません」のエラー・メッセージが出てしまう事態も日常茶飯事である。これがなくなるのであれば確かに嬉しい。
 特にここ最近はその不調が顕著になった。昼間は母のマンションに出掛けていたので状況は不明だが、今日は夕方以降、ほぼ全く繋がらない状態が続いている。ADSLの不調なのか、ルータの不調なのか、それともまた別の原因によるものなのか判らなくて往生してしまった。台風一過、いきなり暑くなったのでルータが熱暴走というかお亡くなりになったのか…? という危惧まで出ていたほどである。

 状況を鑑みると、どうも原因はやはり大元のADSLの不調らしい。夏休みに入ってトラフィックが倍増し、パンク状態に陥っているのかもしれない。そんなことが起こり得るものなのかどうかは、もちろんわたしは知らないのだが、不調が顕著になったのはここ1週間ほどなので、夏休みと関係あるのかなあと思ってしまったのだ。
 もう1つ考えられるのは、キイ局とウチとの間を走る国道で、大規模な工事が行なわれているせいではないか、ということだという。どうも夜間も突貫工事が続けられているらしく、夜になっても状況は改善しない。ほんっとーにイライラする。

 原因がどうであれ、光に乗り換えるあと数日間をガマンすれば快適なネット・ライフが帰って来るのだろう。それをよすがに、途切れ途切れの回線を辛抱する今日この頃なのであった。本当に光に乗り換えたらこの状況が改善されるのだろうか。今日の日記もアップ出来るかどうか今のところ不確実である。「立つ鳥跡を濁さず」どころか、ADSLとお別れできてメチャクチャせいせいするわ、「後は野となれ山となれ」という心境になりつつある。
 それにしてもこのエリア、どこもこういう状況なのだとしたら、さぞかし苦情の山が回線業者さんに行っていることだろう。気の毒であるが、わたしとしてもやっぱり「早いところ何とかしてくれ」と思わずに居られない。国道の工事によるノイズが原因だとすると、局地的かつ回線業者さんにもどうしようもないトラブルだったりするのだろうか。タメイキ…。




07/28 奇妙な事件のニュース・その後

2005/07/28 22:33
 先月30日の日記に、川崎で頻発している奇妙な引ったくりのニュースを書いた。若い男性ばかりを狙った眼鏡・コンタクト泥棒で、先月末の段階では8件の被害が報告されていたらしい。今日のネット・ニュースで、その犯人が捕まったという記事が出ている。一番不思議だったのが動機なので、どういう理由でそんなヘンテコな引ったくりをやったのか、記事を読んでみた。
 捕まったのは29歳の男性で、あれからも順調に(?)犯行を重ね、被害届は近隣の区を合わせてトータル22件にも上っていたらしい。1ヶ月で14回も新規の引ったくりを働いたのか、それ以前の被害者が記事を読んで「これは僕もだ」と届け出た分が混ざっているのかは知らない。けれど、眼鏡やコンタクトに固執する泥棒もそうそう居るまいから、おそらくは全部、今日捕まった男性の仕業なのだろう。

 動機の他にも疑問点はあった。「眼鏡を貸してくれ」と声を掛けてそのまま持ち去るケースは状況としてまあ判るとしても、コンタクトをどうやって盗むのだろう? ということである。そもそも通行人がコンタクトを装着しているか否か、この容疑者はどうやって判別したのだろう? 眼鏡を掛けていない通行人に片っ端から「あなたコンタクト使ってますか?」と訊いて回ったのか。もしくは眼鏡を掛けている通行人に「今あなたコンタクト持ってますか?」と訊いたのか。どっちにしろ不気味である。
 今回捕まるきっかけになった事件は、先月17日のコンタクト引ったくりらしい。とあるマンションに帰宅した男性に近づいて道を尋ね、因縁を付けて顔を殴り、家まで押し掛けた上「その時被害者が使用中だったコンタクトを(!)」わざわざ外させて自分の目に入れ、逃げたのだという。
 き、気持ち悪い…。引ったくりというか既に押し込み強盗ではないか。被害者の31歳の男性は顔に10日間の怪我というから、相当酷く殴られたに違いない。気の毒に。

 肝心の動機は、やはりと言うかそのまま過ぎて拍子抜けというか、単に眼鏡に対する執着心らしい。ネット配信されている2紙の記事によれば、「中学の時に友達の眼鏡を借りたら格好良くて気に入った」とか、「友達の眼鏡を借りて掛けたら良く見えるようになった」とかで、眼鏡を好きになったと供述しているという。
 容疑者の自宅を調べたら、出るわ出るわ、眼鏡124点、コンタクト30組、ケースなど約160点が見付かったそうで、引ったくり以外にもいろいろな手段で盗み回っていたという。並大抵の執着心ではないことが良く判る(怖)。

 眼鏡もピンキリだから、1本1万円そこそこのものから上は20万円超までいろいろある。度にもよるが平均5万円くらいだろうか(根拠ナシ予想)。1件当たりの被害額はそう大したものでなくても、トータルでは随分な額に上るだろう。124本の眼鏡(及び30組のコンタクト)の持ち主をいちいち探し出すのも大変に違いない。持ち主にしたって、盗まれた眼鏡を返してもらったとしても、ちょっと不気味で使うに使えない気がする。おそらく新しいのをもう作ってしまっているだろうし…。
 ウチで目の悪いのはわたしだけなので、家人には眼鏡ユーザの心情は判ってもらえない。しかし両目とも0.1そこそこのわたしには、眼鏡はまさに必須アイテムである。さすがに歩けないとか階段を踏み外すとかいうことはないだろうが、PCのディスプレイは朧に光るただの窓になり、TVは灯付きラジオと化す。家の中で探し物も出来ないしもちろん時計も読めない。外に出たら、すれ違う人が知人か否か判別出来ないし、知らない場所ならたぶん立ち往生してしまう。
 失くしたとしても、自分の目に合うスペアをすぐその辺で買って来るという訳にも行かない。そういう貴重品を盗むなんて、まったく迷惑なシュミである。ぷんすか。

 個人的な想像(妄想かもしれない)だが、この容疑者の「眼鏡に対する執着」というのは、眼鏡それ自体ではなくて「誰かのものである眼鏡」に向かっていたのではないかと思う。眼鏡に凝る人など、普段使いのものやお出掛け用のもの、色や形が微妙に違う眼鏡をたくさん持っていたりするらしい。目の良い人が眼鏡を作ってはいけないという法はない。容疑者の男性も、好きなだけたくさんの眼鏡を買い集めることだって出来たハズである。もちろんそれなりのお金は掛かるけれども。
 そこを敢えて、危険を冒し他人を傷付けてまで盗んだり引ったくったりしたということは、ただ眼鏡が好きというだけではないのではないか。例えは極端だが、下着泥棒のようなアブノーマルな執着だったのかなあ、などと思ってしまうのだった。ううむつくづく気持ち悪い性癖である。

 こういうシュミの持ち主が、今回捕まった人の他にも沢山居るとは思えないが、何にしろフェティシズムにもいろいろあるらしい。世の中広い、とある意味感心してしまう。どんなシュミを持とうと他人に迷惑を掛けない限り自由なのだから、眼鏡集めをするにしても、もっと真っ当な手段を選んで欲しかったものである。
 とは言え「使用済みの眼鏡」をどうやって集めるかと訊かれると確かに困る。わたしにしても、度が合わなくなったりフレームが修復不可能なまでに歪んでしまった眼鏡を誰かに「それ譲って下さい」と言われたとしたら、まず間違いなくお断りするもんね。




07/29〜30 この夏のメイン・イヴェントその1

2005/07/29 22:58
 明日は姪っ子1号と一緒に浦安方面へお出掛け。ネズミーランド(違)である。一昨年の夏だったと思うのだが、当時5歳の姪っ子1号を生まれて初めてのネズミーランドに連れて行ったら、彼女は夢中になってしまった。5歳の子供の足では果てがないように思える広大な「夢の国」、踊り回るキャラクターたち。夜ともなればエレクトリカル・パレード見物で、目の前をキラキラしい乗り物に乗ったお姫様その他が賑やかに通り過ぎて行く。それはそれは魅力的に映ったのだろう。
 確かあの時は午後用のチケットで入場し、閉園時間まで居たのだった。5歳の子供には多少ハードな1日だったハズだが、夢中になっている間は疲れなど全然気にならなかったらしい。それよりも、まだ遊び足りないと思っているうちに閉園時間がやってきて、観たいと思ったアトラクションが終わってしまったショックの方がよっぽど強かったようである。1週間後に母や妹と一緒に訪れたサン○オ・ピューロ・ランドでは、「ここにはもっと面白い乗り物があるハズだ、早く行かないと終わっちゃう」と泣いて妹に怒られていた。遊園地にもいろいろあるのだということが、まだ判らなかったと見える。

 先週金曜日に来訪した姪っ子は、そんな訳で、当然今回も彼の地を訪れたいと思っているらしい。2年分お姉さんになっているので、前回お気に入りだった「イッツ・ア・スモール・ワールド」や「アリスのティー・パーティ」などでは騙されてくれないかもしれない。とは言うものの、天真爛漫・天衣無縫な姪っ子1号は、実は結構怖がりでもあるので、ジェット・コースターに乗せたらびびってしまうと予想される。匙加減が難しいのである。
 当初は前回と同じように、午後出掛けて閉園まで居ようかという予定を立てていた。ところが家人の同僚さん(2児の母)によるレクチャーでは、夏休みのネズミーランドにはその戦法は不向きだという。まず駐車場が死ぬほど混雑する。午後にのんびり出掛けようものなら、入り口ゲートまで延々と歩く羽目になるらしい。行きはともかく、散々遊んでぐったり疲れた小学2年生を連れて、夜歩きたい距離ではないという。
 結局一番マシなのは、朝早く開門と同時に入場し、ファストパスとランチの予約を早々にゲットしてから体力の続く限り遊び、程好い時間に退出するというコースなのだそうな。

 お言葉に従い予定変更。明日は朝6時半に出発である。家人もわたしもネズミーランドを嫌いではないが、さすがに夏休み真っ只中の土曜日の混雑は出来れば避けたいと思っていた。姪っ子の「夏休みの思い出」のためでさえなかったら、誰がわざわざこんな期間に行くであろうか(いや行かない)。家人はしみじみと「こんなに気の重いネズミーランド行きは初めてだ…」とボヤいている。
 用意の良い家人が買い込んで来たガイド・ブックをパラパラめくっていると、どうやらランチの予約が出来るらしいという情報が見つかった。開門と同時にファストパス(姪っ子向けに「プーさんのハニー・ハント」を選ぶ予定)とレストランの2方向に走ろうという手筈にしてあったのだが、わたしと家人の両方が全力疾走したら姪っ子は置いてけぼりになる。どうしたものか…と悩んでいたので、それは願ってもない朗報である。

 幾ら何でも1歳と6日の赤ん坊を真夏のネズミーランドへ連れて行くのは無謀だろうということで、姪っ子2号はお留守番。本当は母が留守宅で姪っ子2号の面倒を見て、妹+姪っ子1号+ウチ2人の4人で遊びに行くつもりだった。ところが姪っ子2号は1号の赤ちゃん時代と違ってかなりの人見知りで、長時間お母さん(つまり妹)の顔が見えないと大泣きしてしまう。祖母である母でも駄目なそうなので、ベビー・シッター計画はおじゃんとなった。
 とすると母+姪っ子1号+ウチ2人というメンバーになるのだが、母は「行っても遊ぶものがないし、暑くて大変だし、体力も続かないのでパス」と言う。結局ウチ2人と姪っ子1号という面子になったのだ。そういう訳で、2方向全力疾走と姪っ子1号のお守りを両立する手段に悩んでいたのである。さすがに姪っ子1号を抱えるなり背負うなりして全力疾走したら死んでしまうし。

 1ヶ月前〜前日までが予約期間だという。ガイド・ブックによれば「意外と知られていないこと」だそうだけれど、夏休み最中の土曜日の前日では、既に予約はいっぱいではないかと予想された。駄目元で総合案内なる窓口に電話を掛けてみる。すると超ラッキーなことに、レストラン「ブルーバイユー」のランチ11時50分の予約が取れてしまったのである。良かった。これで全力疾走は家人に任せ、わたしは姪っ子1号を連れてのんびり入場すればいい。
 スポーツ・クラブに通ってはいるものの、それほど運動大好きでもない家人にいきなり走らせるのもちょっと心配なのだが…。

 ということで、明日はきっとヨレヨレボロボロになって帰宅すると予想されるため日記はお休み。期待通り楽しい1日となれば、明後日の日記のネタにするかもしれない。「プーさんのハニーハント」はファストパスを取るつもりだし、「イッツ・ア・スモール・ワールド」とか「アリスのティー・パーティ」とかならば、それほど長時間の行列もしなくて済むのではないかと思うのだが、甘いだろうか。
 家人は家人で密かに「姪っ子1号をジェット・コースターのどれかに乗せてやろう」と目論んでいるらしい。実はヘタレな姪っ子1号が、帰宅後に自家中毒でも起こしたら困るのだが、さてはてどうなることやら。




07/31 夏の盛りのネズミーランド

2005/07/31 23:18
 という訳で昨日、姪っ子1号を連れて浦安へ遊びに行った。どちらかというとフキツな始まり方をした1日だった。
 まず携帯電話のアラームをセットする時間を間違えてしまった。本当なら5時半に起きて6時半に出発という予定だったのだが、わたしはうっかりそれを5時にセットしてしまった。30分遅く間違えなかっただけマシなのだが、おかげで家人ともども、睡眠時間を30分ロスする羽目に陥る。
 それが祟ったのかどうか不明だが、どうも朝から貧血気味である。寝る前に沸かして、洗い桶の水で冷ましておいた麦茶をペット・ボトルに詰め替えている時、どうにも立っていられなくてつい台所にしゃがみ込む。家人に目敏く顔色を見咎められて一瞬ヒヤリとする。姪っ子があんなに楽しみにしているネズミーランドを、わたしの体調不良でおじゃんにする訳には断じて行かない。寝不足のせいということにして何とか笑って誤魔化した。

 とても朝食を摂れる状態ではないが、胃を空っぽにしてクルマに揺られるのも良くなかろうと、大好物マンゴー・ジュースをミネラル・ウォーターで割ってリンゴ酢少々を垂らした特製サワー・ドリンクをちびちび飲んでみる。いつもなら大抵これで復活できるのだ。しかし5分だけソファに横になったものの一向に良くならない。ううむどうしよう。
 ついに出発時間となった。相変わらず冷や汗がダラダラ流れている。先にクルマに向かった家人に少し待っていてくれるよう頼み、お手洗いに駆け込む。飲んだマンゴー・ジュース全部リヴァース(汗)。鏡に映る顔は紙のように白かった。ま、まずい。

 ただし胃が空になったせいか多少ラクになる。無理矢理クルマに乗り込んで母のマンションへ姪っ子1号を迎えに行く。わくわくした表情の姪っ子に会って少し気が紛れる。いいぞ、この調子で復活してくれないだろうか。浦安に到着するまでに何とか使い物になるために、とりあえず胃袋に何か入れておかねばならない。ちょうど母が姪っ子におにぎり3人分を持たせてくれていたので、シャケのを1個、1口40回くらいずつ噛みながら恐る恐る飲み込む。胃が受け付けなかったらエライ騒ぎだっただろう。
 どうにか1個食べ終えたので、家人には悪いが少し眠る。30分ほどうとうとしただろうか、目が覚めたら最悪の状況は脱していた。顔に触っても冷たくないし、冷や汗もどうやら引いている。よし、これで行けるぞ!
 個人的な最大の危機は密かに乗り越えたものの、他にも渋滞に引っ掛かるやら、姪っ子1号が途中で「おっきい方」を催すやら、てんやわんや状態であった。それでも何とかネズミーランドの駐車場には7時55分ほどに到着、入場者の長蛇の列に混ざって、8時15分には入場を果たした。ここまでで既にぐったりである。

 家人は「プーさんのハニー・ハント」のファストパスを取りに走り、わたしは姪っ子1号を連れてリクエストの「大きなお船」へ向かう。たぶんマーク・トウェイン号のことだろうと踏んだのだ。着いたら第1便が出るまでに40分近くあると判明、乗るのはひとまず諦める。キャストのお兄さんが姪っ子に「サマー・アドベンチャー・マップ」というのをくれた。スタンプ・ラリーの要領でシールを集めると、記念のバッジをもらえるらしい。後々このマップがわたしと家人のトドメを刺すことになるとは、その時は想像だにしなかった。
 シンデレラ城前で家人と合流し、待ち時間5分なのでミステリー・ツアーに参加。姪っ子1号はキラキラのお姫さまが出て来るアトラクションを予想していたようで、暗い場内を進み始めるや否や大泣き。抱き上げた家人に齧り付いて顔を隠してしまった。予想以上に怖がり屋だったらしい。

 先が思いやられたのだが、その後は「プーさんのハニー・ハント」や「イッツ・ア・スモール・ワールド」、「アリスのティー・パーティ」などでご機嫌となる。わたしはティー・カップでぐるぐる回されてまたもや沈没寸前であった(汗)。無理矢理笑顔。幸い、予想していたよりも陽射しは弱いし風もある。午前中は人混みもそれほど酷くはなかった。
 前日にレストランの予約を入れておいたのと、難問の「プーさん」のファストパスを取れたのとで、行列にもそれほど並ばずに済んだ。姪っ子1号が、人気のあるジェット・コースター系のアトラクションを拒否したことも大きい。家人は物足りなかったようだが。

 マーク・トウェイン号前でもらったシール・ラリーで集めるシールは全12枚。5枚以上でバッジがもらえるのだが、姪っ子1号は断固として全部回るのだと主張した。次のポイントへのヒントはマップには書かれておらず、シールを読むまで判らない。要領の良い参加者は各ブロックを虱潰しにして予めシールだけ集め、順番が判明したところでマップに貼り付けていたようである。回るアトラクションの順番はどうやら意図的に対角線上に置かれているらしかったので、わたしたちもそうすれば良かった…。
 午後3時を回った辺りで家人とわたしはバテバテとなる。姪っ子1号も疲れていない訳ではなかろうが、観るもの全てが楽しいので疲れが気にならないらしい。行った先のアトラクション全て(暗い狭い怖い系は除く)に入りたがって難儀してしまった。あとシール2枚となった時点で「蛍の光」宣言をし、姪っ子1号は大不興である。前以って母親(つまりわたしの妹)に「帰るよと言われたら文句は付けないこと」とキツく言い渡されていたのだが、やはりもっと遊びたい気持ちには勝てなかったと見える。

 マンション帰投後、母や妹や姪っ子2号たちと共に晩御飯を食べ、少々一服した後家人は帰宅。わたしは姪っ子1号のリクエストでそのままお泊りである。当初は姪っ子がウチに来る予定だったのだが、家人のCPAP治療中の寝姿は子供には恐ろしげに見えるかもしれないということで、わたしが出張ることになった。
 22時半には倒れ込むように眠ってしまったのだが、翌朝7時に起きてからまた「遊んで攻撃」再開。さらに姪っ子1号の夏休みの課題の作文に延々2時間半。作文は苦手だとかでつい気を散らして遊び始めるので、宥めたりノセたりヒントをばら撒いたり叱ったりしながらでないと進まないのだ。ウチに帰って来たのはやっと昼食後、ゴネる姪っ子1号を振り切ってのことである。

 判ってはいたが、いやはや姪っ子1号のパワー恐るべし、であった。ヘロヘロになり、昨日着ていた黒の綿タンクトップには塩が吹こうとも、「まとり姉ちゃんと100年くらい一緒に居たら遊び飽きるかもしれない」などと言われると、たちまちデレっとなる馬鹿伯母なのである。家人は「姪っ子1号とキミの精神年齢が同じくらいだから気が合うのだろう」と言うのだが(失敬な)。