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1996年8月12日 花土溝〜チャルクリク |
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| ミーラン故城の落日 |
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今日の行程は距離は短いが高いところで高度が3600mあり、今回のキャラバンで一番の難所ということになっていた。今日の宿泊地のチャルクリクの70キロほど手前には、ミーラン故城があり、今回の初めての遺跡である。一日中砂漠の中を行き、途中には集落らしい集落もないので、お昼ご飯は中国製のカップ麺になるとも聞かされていた。
それが、よりによってお腹が下ってしまったのだ。しかも悪いことは重なるもので、本来なら僅かながら、舗装道路を走れるはずの部分で、道路工事があるというのだ。道路工事で道路が封鎖されているとすると、通過に何時間かかるかわからないところを待つより、迂回することになった。こちらの道路工事は実にすさまじいもので、道路が通行止めになってしまうこともままあるのだ。他に迂回する道のない場合など、車のドライバーはひたすら待つのだ。いつ終わるともしれない、大陸時間の工事を。しかも、車のドライバーもそういうことには慣れっこになっていて、他の車のドライバーとトランプを始めたり、井戸端会議に精を出したり、のどかな風景になってしまうと言う。
この迂回路、これがすごいものだった。最高峰が5798mあるアルキン山脈を大きく回り込むルートで、道はあるようなないような。岩山と岩山の間の細い曲がりくねった谷を車で通るのだ。回りは岩だらけで、平らな土地など目に入らない。それでも、このルート、歴とした国道だという話だった。車は、軽いハイキングルートよりも激しい段差のある岩場をゆっくりと進み、時には、大きく前後に傾いたりもした。オフロードではなく、ノーロードである。
ゴビ灘に出たら出たで、7月中旬の洪水で流されたということで、道は寸断されていた。砂漠に大きくうがたれた洪水の後に沿って反対側にわたれる場所を求めて、何百メートル時には何キロも目指す方向とは違う方向に走った。洪水からのわずかな日にちで、すでに先行車の轍が出来ていたが、その轍も時にはくるくると輪を描いて活路を見いだすべき努力の跡が見て取れた。
揺れるというのではない。車の中で転がってしまうのだ。日本で普通に乗っている車に、ドアの上などに掴まるためののハンドルのようなものがついているのをご存じだろうか。パジェロのあのハンドルをしっかり握っていないと、車がバウンドするたびにおしりがシートから跳ね上がるのだ。とにかく揺れるのだ。
車は、ものすごい悪路を結構なスピードで走ったりしても、さすがに三菱の誇るパジェロだけのことはあって、何も問題はない。しかし、中身の人間はまるでシェーカーの中に入っているようなもので、これは実につかれた。しかも、私の場合、お腹の中が工事中で、腹は下るし痛いしで、身の置き所がなかった。少しでも眠りたいのだが、それもままならず、終いにはあまりのきつさに唸り始めてしまう始末。お昼の休憩など車が止まっているときに、ひたすら眠りに落ちていた。朝10時過ぎに山越え道に入ってから、5時過ぎにゴビ灘に出るまで車のひどい揺れは続いた。楽しみにしていた山の写真もタマリスクの写真も撮れないまま、車の中に倒れていた。
午後4時の気温、42度。休憩の時に車のドアを開けると熱風が吹き込んできた。ドライヤーの風のようだった。車体の外回りの気温を表す数字は58度を示していた。唇がひどく乾燥した。今日はよくよく水分の失われる日だ。
ゴビ灘の道もお世辞にもいい道とは言えず、文句を言う気力もなくひたすら揺れに耐えていた
夕方7時を過ぎると、悪路走行の時間も9時間を超え、シートに横たわりながらうなり声が口から漏れる。
夜9時過ぎに日没直前のミーラン故城に到着した。少し回復していたので写真だけは、夕暮れの闇の迫る中、車の中から這い出して遺跡のバックライト写真を撮影して今日を終えた。カメラが岩のように重く、体が前後に揺れているのが自分の長い陰の長さが変わるのでわかったが、感覚は麻痺していた。前屈みになりながら、遺跡の足下まで行き、土くれに手をふれ、腰を下ろした。
あまりの疲れに旅に出たことを後悔したが、旅の目的である写真にはなぜか意欲がわき、日は既に沈みわずかな光が残るだけだったが、その残光の中で写真を何枚か撮った。
最後のトイレタイムの時に空を見た。くっきりと夜空に横たわる天の川が見えた。タクラマカン砂漠の落日とそれに続く星をぶちまけたような星空は、砂漠に来たという実感を与えてくれた。それでも夜満点の星を見た頃にはかなり回復してきていて、何だか幸せな気分をほんのちょっぴり味わったのだった。
その後、さらに75キロの道を3時間半かかって、午前0時55分、今夜の宿泊地のチャルクリクに到着した。1日ですれ違った車、僅かに7台。走行時間、ああ、考えたくもない。
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