1996年4月14日(第15日)
ザンジャン〜テヘラン


    
遠くに雪山の見える朝焼けの景色
ザンジャンの朝焼けの山なみ

 朝、旅先にしてはいやな夢を見て、うなされて目を覚ましました。こういう日は、元気よくぴょんと飛び起きて二、三回屈伸運動か何かして、元気を出すのが一番とばかりにベットから出て窓のカーテンを開けると、町の南の山並みがきれいに朝焼けの中に浮かんでいました。赤茶けた山の姿、後ろのブルーの空、それはそれはきれいで、窓を開けて写真を撮りました。スチームの入っている室内は暖かいけれど、外は5度しかなく寒かったです。でも太陽が昇ると急速に気温が上がるので、出かける頃はちょうどよくなっていることでしょう。なんだか、元気が出てきました。今日も一日がんばるぞ。
 今日は、いよいよ、首都のテヘランに向かいます。
 アジアハイウェーを突っ走ること4時間半、腰が痛くなりました。ハイウェーと言っても、日本の高速道路を想像したら大間違い。幹線国道よりまだ、舗装状態は悪いくらいです。そこを、命がけは少し大げさですが、ぶんぶんとばして行くわけで、後ろの方は乗っているだけで疲れます。みんな15日目ということで、少しずつ疲れが出てきています。私も、狭い座席に丸くなるようにして眠っている時間が増えました。
 テヘランに着いて、まっすぐイラン国立銀行の宝石コレクションを見に行きました。これはツアーで一緒に旅をしている佐々木さんが、私たちがテヘランに着く日曜日の午後2時から4時までともう一日の、週に2日しか公開していないことを知っていらっしゃって、見学を提案してくださって実現しました。そのために本当は今日見るはずだった、ザンジャンのサルタンの廟を昨日のうちに雨の中を見学したのです。
 宝石は、あれほどあったら、ただの石みたい。宝石と黄金で出来た地球儀重さ34キロ。何なのでしょう。しかし、一番興味があったのは、『呪いのダイヤ』といわれる185カラットくらいのダイヤです。これは発見されたときはこのほぼ倍くらいの大きさがあったそうです。それを、カットの都合で、ふたつに分け、片割れがロンドンのロンドン塔にあるそうです。これをもっているとその王朝は滅びるとかで、私はイランで革命が起きてパーレビ国王とファラー王妃が国外に脱出した、という記事に関連して、このダイヤの記事を読んだ記憶があります。これが、ダイヤだと思うと気持ち悪くなりそうに大きな白いダイヤは、王冠とともに、飾られていました。70年前にイランに王室が出来たとき、王室は、これらの宝石を国民の財産とし、王自らが使用する度に国立銀行から借用証を書いてかり出していたという説明でした。だから、今ここに宝石が残っているのは当たり前だと。
 しかし、私の知っている異説があって、パーレビ国王が亡命しようとしたとき、国王はこれらの宝石を持ち出すべく、宝物庫の鍵を持つ7人を呼び寄せました。宝物庫はこの7人の持つ7つの鍵がそろわなければ開くことが出来ないのです。ところが、革命が起こることが明白だったので、後難をおそれ、7人がそろわなかったので、宝物庫が開けられず国王は亡命先にこの莫大な宝石を持っていくことが出来なかった、というものです。どちらが事実かはわかりませんが、なんだか私の知っている異説の方が、夢がありませんか?
 今日はこれから、民族舞踊を見せてくれるレストランで食事です。その話はまた明日。

ミニコラム イランの革命と大人の夜
ナイトクラブの舞台の演奏
イランの音楽は
やはりオリエンタルな
香りがした
 夕食を食べにテヘラン市内のレストランに出かけた。店に入るとすでに演奏は始まっていて、もの悲しい音楽が流れている。今まで聞いたどのタイプの音楽とも異なって、単調だが美しいメロディだ。ここはいわゆるナイトクラブの様なものなのかも知れない。
 何しろイランは革命以後、ちょっと時代の流れに逆らって独自の路線を行っているようなところがある。その考え方の一つに、革命前は確かに自由でよかったかも知れないけれど、国王とその一派は国民を搾取してすごい贅沢をしていた。(革命以後、王家の宝物を公開するなど宣伝活動が行われている)今はみんな貧乏で確かに自由もないかもしれないけれど、唯一神アラーの教えに忠実な素晴らしい世界を作るためなので辛抱、辛抱。みたいなムードを盛り上げようとしているらしい。タブリーズのイランに入って一つ目の夜に、アイスクリーム屋で、いい大人の男たちがアイスクリームを食べながら、時間を過ごしているのをみたけれど、本当に遊ぶところがないようだ。その点、この店は数少ないナイトスポットみたいなものらしく、私たちが入ってじきに店は満席になった。
 暖かい焼きたてのナンと塩と香料入りのヨーグルトドリンクを飲んで待っていると、演奏が変わって、今度は太鼓を持った男が現れ、時には天井から吊した鐘を鳴らしながらの歌となった。こちらも店の中で水タバコを注文して吸うことが出来ることがわかり、殿方連中が一つ注文して、変わりばんこに吸っては記念撮影したりしていた。私はタバコを嗜まないので、吸ってみた人に聞いたところ、味がマイルドになって、結構おいしいらしい。なんだかんだと騒ぎながら、曲をきいていると、短いメロディを延々と繰り返しながら歌っている。これは、メロディよりも、詩のほうに重きを置いた歌のようだ。何についての歌なのか、ペルシャ語なので知りようもなかったが、短いメロディに込められた詩の情感だけは伝わってきたように思う。でも、内容が、コーランってことはないよねえ。それとも、ホメイニ師をたたえる歌とか、革命賛歌とかかしら。
 メインディッシュのカバブとライスが運ばれてきた頃、舞台の上も三組目の演奏者に変わり、男性四人組の歌と演奏になっていた。これは、メロディも多彩で楽しかったが、叫ぶように歌う歌詞がわからないのは同じで少々聞いているのに疲れた頃、やっとホテルにかえることになった。
 夜遊ぶところがない、デートもできない。若い人たちは、学校を終わると、兵役に行き、帰ってきたら見合いで結婚をする。自分の家族と過ごしたり、子供を作ったり(これが今のイランのふつうの娯楽だとガイドは言った)そんな閉鎖的な人生しかないことに人々は疑問は持たないのだろうか。外に食事に行ったり、映画に行ったり、人目を気にせず恋人と町を歩ける日本がなんだかなつかしかった。自由の代償は高いけれど、私は自分の国をちょっとだけ誇りに思ったのだった。

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