1996年4月15日(第16日)
テヘラン


    
巨大な猫の足のような石彫り
大きな猫の手(たぶんライオンの前足)

 昨夜は、これを書いてから、ホテルの電話室で何とかインターネットにアクセスしようとしましたが、出来ませんでした。その後、ホテルから車で20分ほどのところのレストランへ。イランの民族音楽を聴きながら、食事をしようという趣向です。料理はカバブとサラダとライスとナン。なかなかの分量でだいぶ残ってしましました。
 驚いたのは、私たちグループの女性は、みんなきちんと顔と手だけをだしてイラン式の服装をしていたにも関わらず、店から、色物の派手なスカーフの人に紺色のスカーフが渡されたこと。イランにしては珍しい、夜営業しているお店なので、とにかく法律をきちんと守った客に来てもらいたい、逆に言うと、お上に目を付けられたくないのかも知れません。
 しかし、慣れない私たちには一日中スカーフを巻いているというのは本当にじゃまくさいものです。しかも、ちょっとでもずりおちると、本人が気づいていなければまわりから注意されます。料理が単調なのも、町の交通が乱暴で怖いのも何でもありませんが、このスカーフは本当にきついです。
 昨夜は、ホテルに帰ってから、洗濯をして3時前に寝て、今日は午前中から、考古学博物館に行きました。色々な展示がありましたが、説明書きがペルシャ語とそっけない英語なので、余りよくわかりませんでした。ついで、ガラス博物館に行きました。古代のものから新しいものまでたくさんの展示がありました。ガラスの色はやはり時代とともにクリアに明るくなっていったことが、よくわかりました。そしてバザールをちょっとのぞいて、イラン風の中国料理の昼食のあと、カーペット博物館へ。ペルシャ絨毯は、イランにとって貴重な外貨獲得の手段だと思うのですが、3ヶ月ほど前からいっさいの輸出が禁止されたそうで、今は私たちが買っても国からもちだせないそうです。しかし年代物のカーペットは本当に美しく、すっかり見とれてしまいました。
   一度ホテルに帰ってから、夕方の飛行機でシラーズへ。ホテルに9時過ぎについて食事。今日はシラーズ泊まり、明日はペルセポリスの見学です。

ミニコラム メソポタミア文明とイラン
石棺のレリーフ(博物館にて)
石は姿が変わらないが
気の遠くなる時間が
流れている
 昔、むかし、私が中学に入ったばかりの初めての中間試験で、歴史の試験の4問目は、忘れもしない『4大河文明に共通する事について書きなさい』という問題だった。4大河文明とは、黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明、ナイル文明だ。答えは『大きな河とその氾濫がもたらす、肥沃な土地が文明の基礎になっている』とか、なんとか、そんな答えだったと思う。つまり河口近くには肥沃な三角地帯が出来て、そこには人が定住しやすい環境があったため文明が育ったということだろう。
 で、今日は、そのうちの一つ、チグリス川とユーフラテス川に挟まれて育ったメソポタミア文明の遺物もたくさん展示された、テヘランの考古学博物館にいっった。ここには古くはメソポタミアから、ササン朝ペルシャまで(本当はもっと新しい時代、シャーのいたイランまでの収蔵品があるそうだけれど、今は公開されていない。)色々なものが展示されている。
 そもそも、今回の旅に出るまで「おおうつけもの」の私はすっかり気がつかなかったが、日本の歴史が古いったって、中国の書物に歴史の残っている邪馬台国だって紀元後の王朝だって言うのに、所在地さえわからない、つまり新しい国なのだ。それが、この博物館にくると、紀元前3000年とか、すごおい古い時代にすっかり文明が出来ている。そのころの日本って、縄文時代とか、弥生時代とかなのに。
 博物館に展示されている美しいレリーフやら遺物とみていると、なにやら心の底に沸き立つものがある。そのころの人はどんな暮らしをしていたのだろう。そのころから、交易は行われていたのだろうか。展示ケースの中の陶器やガラスなど、そして、小さな動物の置物(副葬品だろうか)、たくさんの生活の道具。これを手に取った人は男か女か、それはどんな人で、どんな暮らしをしていて、いつ頃なんのためにこれを手に入れたのだろう。その人は幸せだっただろうか。どこで生まれ、いくつでどこでなくなったのだろうか。
 いつになく、想像力たくましくなって色々考えていたら、言葉は通じないが博物館のおじさんが私の手を取って窓辺につれていって、窓の下の木を指さしている。のぞき込んでみると、四角い建物に囲まれた中庭の植え込みに、鳩が卵を生んでいた。命の声が聞こえたような気がした。今の私たちを1000年の後の人々はこうやって想像するのだろうか。とても不思議な気がした。  

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