1996年4月20日(第21日) マシュハッド〜国境〜マリ(メルプ) |
マッシュハッドから国境の町サラクスへ |
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快晴。朝の気温23度、正午の気温32度。今日は、国境越えがあったので、精神的にひどく疲れました。午前中8時にホテルを出て、国境の町の向かう途中、山越えをしました。そのときに最後に振り返って山の上から見たイランの大地は含まれる鉱物によって色が違うのか、何色使った塗り絵の様に美しく荒れ果てていました。遠くに緑も見えましたがこのあたりはもう、樹木の陰もまばらです。
何時間かの苦労の後、トルクメニスタンで草原の地平線に日が沈むのをみたのは夜の8時頃だったでしょうか。ここではもう、地平線は丸く、地球が丸いことがよくわかります。いよいよ私たちのアジアハイウェーの旅も、中央アジアに入ったのです。
アジアハイウェーというと、私はこちらに来るまで、イスタンブールを出発点として北京まで、ひたすら東へ東へと向かう一本の道があるかの様に思っていました。しかし、それは間違いで、東西を結ぶすべての幹線道路がアジアハイウェーなのです。そのアジアハイウェーをひた走って、今日で17日、イスタンブールでの観光の部分を計算に入れずに、イラン=トルクメニスタンの国境までで距離がおよそ5600キロ。まだ、半分までは来ていなません。
アジアハイウェーの出発点がイスタンブールかどうかについては異説があります。というのは、トルコはNATOに加盟して、すでにヨーロッパの一部となったので、アジアハイウェーにはトルコの部分は含まないという説があるといいます。私は、イスタンブールで、アジアサイドとヨーロッパサイドの違いを肌で感じました。オフィスビルの建ち並ぶヨーロッパサイド、対岸に渡るフェリーの乗り場で魚を売っている屋台の並ぶ生活のにおいのあるアジアサイド。やはり、私の感触ではアジアはあのイスタンブールのフェリーの波止場から始まっていように思う。色々な目の色、肌の色。色々な言葉。フェリーの乗り場で対岸のビル群と何となく取り澄ましたような様子を見ながら、アジアの一員としての自分が妙に落ち着けるように感じたあの雰囲気。私にはアジアのにおいがしたのかも知れません。
アジアハイウェー。ヨーロッパから北京へこの道を突っ走るラリーが走ると聞いた数年前から、いつか走ってみたかったその道を、ツアーバスが走るという朝日新聞の記事を、私は昨年の夏、避暑地で読みました。長距離電話で(今、ここから東京に電話することを考えるととても短い長距離電話でなんだか書きながらこそばゆいけれど)旅行会社の本店に電話をしました。それから8ヶ月。私は、トルクメニスタンの、ちょっとだけ古びていて、洗面所の蛇口から濁った水の出るホテルの小さな机の上で日記を書いています。今、自分が旅をしながら、それでもそのスタートがトルコであろうが、イランであろうが、アジアハイウェーのスケールの大きさには何ら変わりがないのです。3000mの山越えで車に酔ったその数日後、見渡す限りの地平線の大平原にいるのです。アジアは広い。つくづく広い。西安まであと8000キロ、残り25日。まだ、半分もきていないのです。これを一日40キロずつ、らくだの背に揺られた、昔の隊商の命がけの冒険。夢の様だけれど、本当のこと。その足跡がたくさん残る中央アジア。バスの横をらくだの列が歩いていく。とうとうここまでやってきました。
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