1996年4月27日(第28日) タシュケント〜ジャンブール |
このところ、胃のあたりが重く少し気をつけなければ痛い目を見そうだという予感があったことは、あったのです。昨日、ツアーの他のメンバーの部屋で行われていた、さよならパーティーにちょっと顔を出して、それから、部屋に帰って髪を洗って、荷物の整理をしていたら、最初はおなかがちりちりし出して、そのうち、下り初めて、最後は胃痙攣プラス吐き下し状態に。午前2時頃耐えかねて添乗員さんのところに電話を入れて医者を呼んでもらいました。
医者が来て、彼女が英語が話せず私たちがロシア語が話せず、言葉が通じなかったので、身振り手振りで症状を説明すると注射を二本打ってくれました。想像するところでは、一本は胃の蠕動をとめるもの、もう一本はブスコパンの様な痛み止めだったと思います。注射をしてすぐ、胃のからえずきは止まったのですが、痛みの方は幾分か弱くはなったものの、続いていました。朝になったら、サワーミルク(柔らかめのプレーンヨーグルト)を食べるようにといって、8時頃また見に来るからと言い残して医者は去っていきました。
医者が、部屋を出て言ってからすぐ、添乗員さんから、こんな時なんですがと示された選択肢としては、このままがんばって旅を続けるという選択肢の他に、繭ちゃんと同じ飛行機で東京に帰るという選択肢がありました。というのは、ここタシケントを過ぎると天山山脈の中に入ってしまい、直行便で日本に帰れるところはないのです。うなりながら、丸くなって、おなかを押さえている私を見て、帰るという選択肢もあるんだよ、と言ってくれるのは本当の親切心からです。けれども、繭ちゃんも帰ってしまう今、私は何としても西安まで走りたかったし、第一、動ける状態ではなかったので、その選択肢は返上しました。
朝まで痛みは断続的に続き、この時点ではどんな体勢で横になっていても、ある程度時間が経つと痛みはおそってきました。それでも、じっと横になって、家族のこと猫のこと、もう1ヶ月近くも猫の世話をしてくれている玉青姉妹のこと、がんばれと送り出してくれた友のこと、協力してくださった企業のご担当の方のこと、自分ががんばらなきゃいけないこと、色々なことを考えていました。心細くて、涙がこぼれました。ロシア語がわからないので自分の病状を詳しく説明もできないし、自分が打たれた注射もなんだかわからない。通訳のウツキル氏は今日は自宅のあるタシケント泊まりなので、自宅に帰っていて連絡がつかないし、もし朝が来て動けなければ、一週間後の直行便の出る日まで、ここタシケントに一人でとどまり、帰国するしかないのです。というのは、今日はまた、ウズベキスタンからカザフスタンへと国境越えがあるのです。私たちは団体ビザなので、私はここで団から離れたら、残された道はこのウズベキスタンの首都タシケントで一人で中国大使館を訪ねて、ビザを発給してもらって、空路中国のウルムチへ行って団がくるのを待つか、帰国するしかないのです。
色々考えているうちに眠ったようで、朝、ヨーグルトを持ってきてくれた足音で目が覚めました。部屋のドアはずっと鍵が開きっぱなしです。8時前になって、昨夜の医者が来て、血圧と熱を計り、吐き下しが止まったと聞いて、今日、ジャンプールへ移動してもいい、といってくれました。本当にほっとしました。朝食も昼食もヨーグルトだけにして、時間までひたすらベットで横になっていました。
時間が来て、添乗員さんが私の手荷物を取りに来てくれたので、私は飲料水のボトルだけ持って、やっとの事でパスに乗り込みました。今晩のジャンブールのホテルは外見はきれいなのだけれど、設備がいまいちなので、ただ宿として泊まるだけにしようと言うことで、ぎりぎりまでタシケントに居ることになっていたのも幸いしました。
ホテルを出発してタシケントの町の中を走っていたとき、何組かのウエディングドレスとタキシードのカップルが集まっている公園の脇を通りました。そこは1966年4月24日の大地震の慰霊碑だそうで、この国では、こういう災害犠牲者や無名戦死の墓に結婚を報告するためにお参りに行く習慣があることがわかりました。これは素晴らしい習慣だと思いました。形式張って祭典をするより、誰もが彼らをずっと身近に感じることができるでしょう。
自分の座席で、リュックに抱きつくようにして眠っていたら、運転手さんの好意で、バスの後ろの寝室で寝かせてもらえることになり、カーテンの後ろのマットレスの上に転がり込みました。体が好きな形に出来るので、この方がずっと楽でした。運転手さんに感謝です。
この夜は、断続的に痛みが続き、熱も下がらず、結局安眠できずに朝を迎えました。
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