1996年4月28日(第29日)
ジャンブール〜ビシュケク〜イシククル湖


    
タラス川の風景
現在のタラス川(添乗員さんが撮影)

 今日は、行程も長くホテルのコンディションも悪いので、昨日のうちに買っておいたパンと、トマトとバナナで、朝食を取ることにして朝の出発は早かったです。私は昨日と同じようにバスの後ろの寝室で、痛みと戦っていました。胃痙攣は12年ほど前にも経験があるのですが、こんなに重いのは初めてで、自分でも血圧が下がっているのがわかるし、熱も出てきています。ビオフェルミンが効いてくれるのを待つのみです。
 途中、この上流で751年7月に中国の唐とアラブが戦争をした、タラス川を渡りました。この戦争の最大の歴史的効果は、唐が敗退した時にたくさんの中国人の捕虜が出たのですが、その中に紙を作る職人が混じっていて、製紙技術が中国からヨーロッパ社会に伝わったことだとされています。ちなみに、バスの窓から、タラス川周辺で、三つ又の木を何本か見かけました。今でも紙を作っているのでしょうか?まだ、バスを降りて100mほど歩いて川の写真を取りに行くのはきつかったので、添乗員さんに写真を頼みました。本当にお世話になっています。
 お昼ご飯はビシュケクのホテルで取りました。私は、スープと暖かなパンを少し食べました。キルギスに入ってから気温がぐっと下がり、みんな大変に着膨れています。私も持っている衣類をみんな着込んでまん丸くなってバスの後ろの寝室に転がっていました。道の悪いところにさしかかると、寝室のベットの上でころころと転がってしまいます。そんな自分がおかしくて、すこし気持ちが明るくなりました。
 次のトイレ休憩で目が覚めると、バスの前にパオ(こちらではユルタといいます)と雪をいただいた山が見えていました。いよいよ天山山脈の中に入っていくのです。目的地はイシク・クル湖。天山の中にはいると不思議と気温が高くなっています。
 イシク・クル湖はソ連時代は、共産党幹部の保養所がたくさんあったところだそうで、今日のホテルも、サナトリウムのようなもので、医者がたくさん居ることろでした。部屋にはいるとすぐ、医者が来て、経過と何の薬を飲んだかを聞かれ、夕食は食べてはいけないといわれました。そして、その夜、サービス満点の特別治療がありました。

ミニコラム 今日も腹痛は続く
道路際のユルタ
この山は天山山脈の一部。
手前にあるパオは
こちらではユルタという
 朝になっても、痛みは完全には止まっておらず、熱も出ていたし、昨日からほんの少しのヨーグルトしか食べていないせいもあって、力が出ない。また、バスの後ろの寝室に転がり込んで、寒さと腹痛に耐えていた。ここは全然暖房が効かない上に三方が窓なので熱がかなりあった私は本当に寒かった。ところが最初二枚あった毛布を途中、私がトイレ休憩に降りたとき同じツアーのお客さんが持っていってしまったため、(みんなが反対してくれたらしかったが、聞き入れなかったそうだ)ますます寒くなってしまった。弱り目にたたり目である。それにしても、病人から毛布を取り上げるって言うのは、本当にすごいことだなあ。
 昼過ぎて、ビシュケクから天山山脈の山懐に入り始めると気温が上がって、だいぶ楽になった。途中のトイレ休憩で、バスのステップに降りて、やっとパオ(こちらではユルタという)と天山山脈の写真だけを撮った。何と言っても、病気をしたら負けである。早くよくなって写真を取ったり、メモを取ったりなどをきちんとしたいとつくづく思った。  そして、このとき私はまだ、今夜の恐ろしい体験のことは予想もしていなかったのだった。

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