1996年4月30日(第31日)
イシククル湖〜ビシュケク


    
イシククル湖越しの天山山脈
イシク・クル湖岸のホテルの前の浜から
南の方角に湖越しに見える天山山脈

 天気は昨日とは打って変わって今にも泣き出しそうな曇り空でした。朝になったら、痛みはほとんどなくなり、ただ、胃のあたりが重苦しくそこに胃があるのがわかるのと熱が少しあるくらいと言った程度のところまで回復していました。ありがたいことです。今朝も新江さんがおかゆさんと梅干しをくださったので、ありがたくそれを朝食にいただきました。ホテルを出るときに、私の担当だった先生に、イラン国内で上着に来ていた白衣と、ボールペンを10本プレゼントしました。先生からは、お尻に注射を一発と4日分の薬とビタミン入りのお茶のボトルと、ミネラルウォーターをいただきました。私の方からは、イラン国内で来ていた、上着代わりの白衣をプレゼントして、ついでにボールペンも10本ほどつけました。
 結局、病名はどうも、はっきりはわからないのですが、食中毒ということのようです。そしてチェックアウトしようと医療費を支払いに行ったら、それはすべてここの宿泊費に込みだと言われました。ますます、ありがたいので、がんばって元気にならなければと思いました。
 途中トクマクで観光を一カ所したあと、キルギスタンの首都ビシュケクに入りました。まず、5時半まであいているというキルギスタン博物館に行ったところまだ4時50分だというのにもう閉まっていて入れませんでした。そこで、ホテルに入って、チェックインを済ましてから、町に出ました。3日間も寝たきりだったので、体がなまっています。ゆっくりとした歩調で、ホテルのまわりを30分ほど歩いて、通りがかりに見かけたバザールを冷やかしたりして、ホテルに戻りました。
 夕食は、控えめにしながら、みなさんと同じ献立を食べました。このホテルのお風呂の設備はあまりよくないので、湯冷めが怖いので、もう一日お風呂は我慢して、後は、ベットに潜り込むのみです。早く元気にならないと、明後日は、中国への国境越えです。この中央アジア=旧ソ連圏内は国境越えが楽だったのですが、今度はそうも行かないでしょう。私たちは経験できませんでしたが、ブハラであった、もう一つの北京を出発してきた隊の方は、国境をバスの中から手を振りまくって、係官を根負けさせて国境やコントロールを突破したりしてきていたようです。それもまた、いい経験ですよね。
 一昨日からの人恋しい病は今日も直っていません。出発直前に手伝いに来てくれていた友人が準備作業の傍ら作ってくれたカセットを聴きながら、本当にホームシックで悲しくなっています。いい年をして、困ったものだ。ほんとに。

ミニコラム たくさんのモスクとたくさんの羊肉
ブラナ・タワー
ブラナ・タワー
 中央アジアも後二日を残すのみとなった。今日は、なんだかんだ言ってとてもいい休養になったイシク・クル湖のアローラ・ホテルを離れて、キルギスタンの首都ビシュケクに戻った。戻ったというのは、ジャンプールからイシク・クル湖に移動した日に、ビシュケクを通過してここでお昼を食べていたからだ。
 ビシュケクに出るまでの間に、一カ所トクマクのブラナタワーというところに立ち寄った。ここは、以前にはモスクとその付属のミナレットというタワーがセットであったのだが、モスクはすでに朽ち果て、タワーも一度壊れたものを1974年に立て直したものだそうだ。
 しかし、この30日間、イスラム文化圏の中を旅して、本当にたくさんのモスクや、ミナレット、メドレッセ(イスラム教の神学校)などを見た。正直言ってもうたくさんという感じだ。同じイスラム圏でもトルコはまだよかったが、イランからこっちは食事もイスラム風のものになり、お肉はほとんどが羊。日本に居たときには、においが気になって、ジンギスカン鍋の時くらいしか口にしなかった羊が、毎日毎日食卓に列をなしてやってくる。しかもその料理法が、多くがカバブという串焼きで目先が変わらないため、どうしても食欲が落ちてくる。このままあと一週間すると中国のウルムチにつくが、そのあたりからやっとふつうの中国食になって行くらしいのでそれまでの我慢だ。私は個人的には、長い髪に羊を焼く時のにおいがついて、ベットの中で羊と一緒に寝ている気分になるのが一番困った。ああ、今夜も羊がやってくる。

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