1996年5月7日(第38日)
トルファン〜ハミ


    
ベゼクリク千仏洞
ベゼクリク千仏洞の回廊。
崖の腹にへばりつくような構造だ。

 朝は過ごしやすい気候だけれど、間違いなく日中は暑くなるなと感じさせられる朝。今日の午前中はトルファンの観光です。バスの中から見るトルファンの町は余り高い建物もなくて、通りの上にも鉄の櫓でぶどう棚が作ったあったりして、なかなかのどかで、緑あふれる町です。道も舗装されていないところもあったりで、果物の町ブドウとはみウリの町という感じです。
 今日の一カ所目は、高昌故城でした。昔読んだ三蔵法師の物語を思い出して、少し感傷的になりました。(ネットナビのホームページ参照)
 続いて、アスターナ古墳群へ。アスターナとはウイグル語で首都のこと。首都の墓地といったところなのでしょう。高昌国の3世紀から8世紀頃までの墓地だとされています。高昌国の滅亡が640年7世紀のことですから、それからまだしばらくは墓地として使われていたようです。現在400くらいの墓が発掘されていますが、見学出来るのは3つだけで、二つが壁画のあるもの、一つがミイラが展示されています。壁画にはそれぞれに意味がありました。一つの墓は、水鳥と暮らすのが大好きだった男性が、自分が生きているうちに、死んでからも水鳥と暮らしたいと作ったものだそうで、水鳥が何羽かと、その小さな雛まで描かれていました。
 また、もう一つの壁画のある墓には、人生訓の様な壁画が描かれていました。 墓の正面の壁に左から、瓶、玉人、金人、石人、木人、それに、ハンカチとお金を入れる壺と草の束、糸が書かれています。
 それぞれにはこういう意味があるそうです。まず、瓶はお酒やお茶を飲むのに使ったものだそうで、入れすぎても、少なすぎても倒れる構造だったそうです。これは、人間は丁度いいのが一番で、自慢をしてはいけないという教えだそうです。
 次は玉人。玉人は、白い馬に乗って、白い服を着て清潔な暮らしをしていると言われていました。ですから、そういう生活をうらやましがって、清潔な生活をしなさいと言うことを教えていると言います。
 次の金人は、目隠しをして口をふさぎ耳を覆って、手を縛っています。これは、日本の、見ざる聞かざる言わざると同じで、人は、よけいなことはせず仕事を一生懸命やりなさいということです。
 次の石人は、金人の逆で目も耳も口も自由です。これは人間は目的や主義主張を持って生きた方がいいという教えだそうです。
 木人は、老人の姿で表されており、これは年寄りの経験を重んじるべしということだそうです。
 この墓に埋葬されていたのは、ちょうという高昌国の将軍で、この将軍が仲のよい4人の将軍から送られた贈り物が最後の絵です。一つ目のハンカチは別れの涙を拭うもので、二つ目の壺は線が入っていて、それを越えてお金を貯めると自然に壊れてしまうものだったといいます。これは、自然にやっているのが一番である、やりすぎれば壊れてしまうものだということ。草はどこに行っても草に寿命があるように、自分の命を惜しめよという意味。最後の糸は、人間関係、友人関係に注意しろ、さもないとそれらは糸の様にぷつんと切れてしまうぞ、という意味だそうです。なんとまあ、盛りだくさんのお墓でしょう。よっぽど説教好き、うんちくたれるのが好きな、将軍だったのでしょうね。
 まだまだ、掘り返されていない平らな土地がたくさんあり、そこには多くの未発掘墓が埋まったままです。また、何か素晴らしい発見があることでしょう。
 最後に、ベゼクリク千仏洞に行きました。ベゼクリクとは、ウイグル語で「きれいに飾られた」という意味があるそうです。これは高昌国の仏教寺院で、麹氏高昌国と西州ウイグル国が栄えていた6世紀から14世紀までのものです。洞は崖にそって、2段につくられています。自然の風化してきたほかに、イスラム教の進入で激しく破壊され、外国の探検隊に盗み出されて、今は修復中のものもあり、57の洞のうち見られるのはいくつかの窟だけでした。壁一面に書かれた仏のほとんどが顔を中心に破壊されていましたが、所々ほとんど無傷で御仏の表情がわかるものもあります。ふくよかな面立ちでそれはそれは美しい表情です。何人かの御仏に会えて満足してその場を離れました。
 後は、ハミを目指してひた走ります。途中ピチャンの石油賓館で食事をして、後は、ゴビ灘(タン)の中を東に走りました。朝、最後の腹下しの後は、落ち着いていましたが、とにかくバスが揺れるのでくたくたで、夕食はとても食べる気になれませんでした。

ミニコラム 高昌国の王都カラ・ホージャの廃墟にて
高昌故城の大塔
廃墟の中に、
大塔がたっている。
荒涼とした廃墟に、
ただ風が吹いていた。
 廃墟という言葉がある。何気なく、たとえば、自室が激しく散らかっているときなどに、「廃墟になっている」などと使ったりもしていた。しかし、しかしだ。この様はどうだ。これが、まさしく廃墟というものなのだろう。周囲約5キロの正方形の遺跡の中、「高昌故城」の中には、崩れ落ちた日干し煉瓦の町が広がっている。
 ここは、カラ・ホージャの廃墟であり、紀元前1世紀頃から人が住み、漢の時代に城壁が築かれた。元の時代にチンギスハンの宮廷の貴族に滅ぼされ、水路をたたれたため、完全に滅んだが、それまでの1000年ほどは大いに栄えた。
 観光客用の入り口からはいると、ろば車で観光しないかとしきりに誘われた。曰く「行って帰ってたったの10元」。無視して歩くと後を追ってきて、次第にディスカウントしていく。最後は3元にまで下がった。
 風が吹き、砂埃が舞い、700年前の栄華を忍ばせるものはその広さだけという状態だが、名にしおう高昌国の王都がこの廃墟かと思うと、栄枯盛衰はこの世の習いとはいえ、時の流れの苛烈さを見せつけられる思いだ。
 特に5世紀から7世紀にかけては、高昌国という漢民族王朝の王都でもあったのだ。私が知っている高昌国とはこのころのことだ。というのは玄奘三蔵が、その往路628年にこの国に立ち寄ったとき、国王の麹文泰(きくぶんたい)は大いに喜んで、三蔵に国師としてこの国にとどまるように熱心に説得した。願いがかなわず、玄奘の決意が固いことを知ると、王は、変わりにインドからの帰り道にこの国に立ち寄り、3年間の供養を受けることを条件に、高昌国からの出発を認めた。そのときに、往復の旅費、途中通過する国々の王への親書などを持たせて、その旅を助けたという。玄奘はインドでの旅を終えて高昌国に向かう途中、麹文泰の国が唐に滅ぼされたことを知ったという。
 そのとき、高昌国が唐に滅ぼされたのは以下の様なわけがある。そのころのシルクロードが高昌国を通っており、そのおかげで国が栄えていた。ところが焉耆(えんき)という国がもっと南の楼蘭を通るルートの復活を唐に願い出た。シルクロードからはずれることは国の存亡に関わる大事ということで、高昌国は、焉耆を攻めたのである。そして焉耆は唐に援助を求め、高昌国麹王朝は唐によって滅ぼされたのである。640年のことであった。
 地面にしゃがみ込んで、土くれを手ですくってみた。土くれはちょっと指に力を入れると指の間から、小さなかけらになってこぼれ落ちていった。仏教にそれはそれは帰依していたという麹王朝。御仏のお慈悲はなかったのだろうか。遺跡の奥には寺院の後も確認されているのに、ここにも、風化した御仏の像が残るのみだ。この寺院で国王に請われるまま、玄奘は仁王般若経を講義したのだろうか。その像に宿っていた魂はどこに行ってしまったのか。
 風に舞う砂を目で追っていたら、煉瓦の陰からウサギが駆け出して、遠くの煉瓦の塀の向こうに消えていった。自分以外の生き物の突然の出現にびっくりしながら、それでも命あるものがこの廃墟に居ることを知って、少しほっとして立ち上がった。子供の頃から、名前だけは知っていた高昌国。滅んでしまった、昔の王都。夢に描いていた廃墟と、本当の廃墟の歴然たる差。一歩一歩遺跡の土を踏みしめながら、色々なことを考えた。

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