1996年5月9日(第40日)
敦煌〜玉門関〜敦煌


    
漢の長城の一部
漢の長城の一部。風と砂よけのビニールが映ってしまっている。

 今朝は朝起きると、柳の綿のような種がホテルのロビーにまで散らばるような風の強い日でした。今日は、8時に出発して、玉門関、河倉城、そして漢の長城の三カ所の観光です。玉門関とそのまわりの遺物なので、とにかく敦煌から西の玉門関を目指します。30分ほど舗装道路走りました。そして舗装道路をはずれて最初の1時間半ほどは全くの平原で、草むら一つありませんでした。。おまけに今日は、折悪しく強い風が吹いて、砂漠は砂が舞うのが目に見えるほどの状態です。それでも朝食を食べてすぐ出かけているのでトイレタイムと相成りました。けれども、用を足そうにも体を隠すところがないのです。バスを降りて風の中、あたりを見回して風を背中に受けながら、50mほど離れた草むらに走りました。
 ここからは事実を書いているのであって、他意はありません。もし、気分を害されたら謝るのみです。
 バスから見えないように、草むらの陰に入って風に丁度お尻を向けたような形で用を足しました。びっくりしたのは、砂の上のあとが、私の目の前1.5m位のところに出来たこと。方向を誤ったら、ひどい目に遭うところです。私が通りかかったときに用を足していた人の紙など、手を離れるなり遠くに飛んでいってしまって、すごい風速です。さて、それから、バスに戻るのが一苦労。風に向かって歩くことになるので、砂粒が目や口や鼻に飛び込んでくるのです。幸い、先にバスに戻った人が居るので、その足跡を見ながらうつむいて顔をおおって歩きました。
 まず最初は玉門関についたのは12時近くで、そこを素通りして河倉城に行きました。ここはその昔玉門関で働く人たちの食料などをおいておいたところだそうです。近くには、疏勅川(そろくがわ)という河があり、その昔は嘉峪関から楼蘭まで流れていたらしく、水路としても利用されたし、まわりに人が住むこともできたらしい。例によって、日干し煉瓦の建物は崩れ去って、建物の概要もしるすべがないけれどさんざん、砂漠の中を走ってきて、城跡のすぐそばに河を見たときはなんだかとても不思議な気がしました。
 ついで、玉門関にもどって、昼食を取り、見学して、漢の長城の遺跡に行きました。今日の風は、実はカメラなどの機材にとっても大問題で、細かな埃や砂粒はカメラの故障の元なので、カメラはすべてビニールに入れて撮影していました。で、今日の写真に、デジタルカメラを入れたジップロックの縁が映っています。コダックのDC−40はサイズは大きいですが、何しろ写真がとてもきれいなのと、処理が楽なのでこれを選んで大正解でした。デジタルカメラはふつうのカメラより、パソコン本体でちゃちゃっと色の調整などができて楽なので、今回の旅でも大変重宝しました。ベリーダンスの写真や、遺跡の写真、壁画の写真などで、明るさの調整や、色味の調整でだいぶん見やすくすることが出来たのも、本当に助かりました。後、残すところ10日。機材にもがんばってもらわないと。
 12時40分に玉門関を出発してホテルに着いたのが4時ころでした。走行距離は247キロ。うち180キロが道のないところでしたから、大変な小旅行でした。それから30分後に今度は鳴沙山に行きました。ホテルから車で10分ほどの距離にあり、入り口の門のところから、ものは試しと、らくだに乗って行ってみました。ところが、らくださん、私の体重に耐えかねたのか、途中で、戻ってきたらくだの一回り大きいのに乗り換えさせられました。そんなばかな。らくだに乗るときは、らくだは前後の足を折って座っているのですが、歩くためには当然立ち上がるわけで、これが、らくだの背にのっていると大きく前後に傾ぐので結構怖いのです。それを行きと帰りの一回ずつでいいはずが、一回よけいになって、ちょっと怖かったです。月牙泉のところまで、人工の池の縁をらくだで行くときなど、観光客がよく落ちるので、らくだは余り勧めないなんていうガイドの言葉などを思い出したりして、池にどぼーんだけは勘弁してもらいたいと、必死に願っていました。
 月牙泉のところでどうしてこんなに大きな砂山が崩れて平らにならないのだろう、なんて考えて山を見ていたら、砂が麓から山を登っていくのです。なるほど、崩れ落ちる一方、風が吹くと、こうして砂が山を登っているなら、山はいつまでも高さがあるでしょう。ちょっと納得しました。月牙泉は山の麓の稜線に沿って、三日月型の泉があるので、その名前が付いたそうです。砂山の真ん中の低地に泉があるということは、そのあたりの水位線がそこだということなのかも知れません。
 観光が全部終わってホテルに戻ったのが6時半ころでした。今日の観光は盛りだくさんでくたびれた上、砂で体中がじゃりじゃりする様な気がするので、ゆっくりお風呂に入って寝ます。

ミニコラム 西域への関所、玉門関
玉門関
玉門関は、
まるで日干し煉瓦の箱
のようだった。
 敦煌の町を朝8時に出発して、玉門関の遺跡に向かった。片道約100キロのうち道のないところを走るのが75キロ余りあるという。腰の具合の良くない人と他に興味のあることのある人の都合二人が敦煌に残り、16人が2台の車高の高い三菱のマイクロバスに分乗して出発した。
 舗装道路をはずれて最初の1時間半ほどは全くの平原で、草むら一つなかった。おまけに今日は、折悪しく強い風が吹いて、砂漠は砂が舞うのが目に見えるほどの状態である。もう一台のバスもともすれば、砂塵の向こうに見えなくなるほどだ。そのうち、草むらがあるようになり、道のアップダウンが始まった。これが本当によく揺れた。バスの後ろに乗っている男の人たちは、中腰の姿勢で立っている方が、まだ腰が楽だと言っていたからよほど揺れたのだろう。今日も、バスが揺れることがわかっていたので、女性達を前に座らせて男性陣はバスの後ろの席に甘んじてくれたので、私も一番若いくせに楽をさせてもらってしまった。
 玉門関についたのが11時過ぎだったので、3時間ちょっとかかったことになる。大変な道のりである。腰には自信のある私がさすがに腰を伸ばしたくなったのだから本当にきつかった。玉門関は関所の四角の建物の外壁だけが残っている。ここを出れば西域である。いったいどれほどの人がここから西域を目指したのだろう。ここ玉門関を出れば、天山北路、南の陽関を出れば、天山南路と西域南道が遥かローマまで続いていたのだ。今回私たちは天山北路を来たので、この遥か砂漠のただ中の玉門関を訪れたわけだ。陽関の方が、敦煌からは距離が近いのだ。
 建物の内側から、外を見ると砂漠が見えた。今までの遺跡と同じ日干し煉瓦の建物だが、西域への思いの分だけ思い出に残った。私にとっても、天山南路と西域南道は宿題になってのこっている。いつか旅したいと思いながら、玉門関を後にした。

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