1996年5月10日(第51日)
敦煌〜嘉峪関〜酒泉


    
酒泉の鐘鼓楼
酒泉の鐘鼓楼は雑踏の中にそびえる

 今日は、まだ風の収まらないうちにさらに冷え込んだため、中国に入ってぼちぼち防寒具とお別れしようとしていた私は、寒さに震えてしまいました。朝8時にホテルを出発して、途中、まず最初に明の時代ののろし台を通りました。こののろし台は5キロごとに作られ、嘉峪関から敦煌を三日で結んでいたといいます。距離にして200キロ以上なので、これはやはり早いと言うべきでしょう。他にもヤルダンという風による浸食地形などを見ながら玉門鎮の新城酒家で昼食をとり、嘉峪関に向かいました。
 嘉峪関からは祁連山脈の主峰祁連山(5547m)が、強い風に舞う砂の向こうにぼんやりと見えました。  その後、嘉峪関の砦を模した建物の、嘉峪関長城博物館に立ち寄って、長城がだいたい3つに時代に分けられて、長さも作られた場所も違うことなどを見学しました。ここには模型や、写真で、砦や長城に関する様々な情報が展示されていて、時間が足りない位でした。出来れば、もう少し、英語での説明が多いとよかったのですが。
 その後、嘉峪関魏秦墓によって、墓室の壁画を見ました。壁画は、なかなかコミカルなタッチで、墓に眠っていた貴族の夫婦の日常生活が描かれていました。この壁画は敦煌のものよりさらに100年ほど古いものだと言いますが、人間より大きく描かれた豚や、大きなシシカバブの串など、どうも食べるものが大切なご夫婦だったのかも知れません。しかし、死後も生きていた時と同じ様な暮らしをしたいと願って、これらの壁画を描くのでしょうが、ということは、現世によほど満足していた人だけが書いたのでしょうか。いや、満足していなければしていないで、こんな生活をしたいという夢を描いた人もあったことでしょう。どちらにしろ、死後の自分が無になると言う想像をすることが恐ろしいのは今も昔も変わりはないと思います。
 最後は今日の泊まりの町、酒泉へ。なぜこのような名前が付いたかと言うと、漢の武帝のころ、この地で有名な将軍霍去病が何度も匈奴を打ち破ったそうです。それを愛でた武帝から手柄のあった将兵にと、酒が10樽下されましたが、全軍で飲むにはもちろん足りません。そこで頭を痛めた霍去病が、その酒を泉に注いだところ、泉の水が酒に変わって、つきることなくわき出たという故事にならってこの名がついたといいます。霍去病といえば、武帝の軍の中でも、極めつけの武功をあげた将軍ですが、部下思いの将軍だった様子がわかって、何となくおもしろいです。

ミニコラム 嘉峪関の修復について
嘉峪関の砦の内側へ入る門から
嘉峪関は
映画のセットの様に
きれいに残っていた。
 今日は、冷たい風が吹く寒い日だった。朝8時に敦煌を出て、嘉峪関についたのが午後2時すぎだった。嘉峪関は万里の長城が山海関からずっと続いて6000キロの果て、その西域側の端っこにあたる砦だ。最初にここに砦が築かれたのは明の時代1372年のことだったというから、かれこれ600年も前になる。嘉峪関の建物自体は、重点保護単位に指定されて、手が加えられ、とてもきれいで見学のし甲斐があったけれど、修復の後が余りうまくないので、どうも違和感があった。内城の中に入ると壁が本当に高いのでびっくりした。特に、壁の上に上がってみると遠くに祁連山脈が見え、そこまで延々と長城が続く様は、何とも雄大で、気の遠くなるような仕事だっただろうと他人事ながら、びっくりさせられた。門の中に、この砦を作ったとき、たった一枚しか残らなかったという煉瓦があったが、本当に技術力があったのだなあと感心した。ここまでの努力をして、戦わなければならない敵と国境を接しているというおそろしさ。土地が続いている以上、誰が攻めてくるかわからないという大陸の事情。本当に世界は広いし、ユーラシア大陸は大きい。
 しかし、重要文化財の修復というのは本当に難しい。とにかくそこにあるものがこれ以上壊れなければいいのだ式の修復の仕方もあるし、芸術の域に達するような修復もある。今回の場合、さっきは下手に直してあったと書いたけれども、確かに、直したところがはっきりわかるように直してあったが、それはそれで、修復の部分と、元からあった部分がきちんと見分けられるようにと言う、政策的配慮でなされていることなのかもしれないのだ。私には、それがどっちかはわからなかったが、それでも文物は残った方がいいので、やはり大切に人類の遺産として保護することに大賛成である。

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