1996年5月16日(第47日)
咸陽〜西安


    
霍去病の墓
茂陵の隣の霍去病の墓

 今日は、朝かん陽で目覚めると、西安地方名物の深い霧に包まれていました。気候は暖かく過ごしやすかったですが、何よりも、観光に行っても、景色が見えないのが残念でした。
 一番目の観光地は、漢の武帝のお墓である、茂陵でした。ここについたときも霧が深く、陵は霧に隠れて見えませんでした。そこで、陪葬塚の一つである、霍去病の墓のところの茂陵博物館に先に行きました。ここの石の彫刻は本当に表情 豊かで、何時間見ていても見飽きなそうでした。霍去病は、武帝の配下の将軍でしたが、大変な武功をあげたにもかかわらず、わずか24才の若さでこの世を去ったそうです。武帝の嘆きが深かったのか、陪葬塚は茂陵のすぐ近くにありました。
 その後、少し霧が晴れたので、茂陵に参拝して、西安へ。西安では、西域への玄関口である、西の城門で到着の式をしてもらいました。やっと、やっと西安につきました。くたびれましたが、でもいい気持ちでした。特に、城壁の上から見た西安のにぎわいは、はるばる西安まで来たことをしみじみと感じさせてくれました。
 その後、昼食後、石碑をたくさん集めて展示してある、碑林を訪ねて、最後は玄奘三蔵が天竺から戻った後、住職をつとめたという、大慈恩寺の大雁塔に行きました。私はここで、玄奘三蔵の有名な経箱を背負って、目の前にランプをぶら下げた絵の石碑の拓本を買いました。
 夜は、やっと西安に到着し、これで、一応、シルクロードの旅は終わったということで盛大なパーティーがあり、私はおおはしゃぎをしてたくさんお酒を飲みました。

ミニコラム 3000本の書を収蔵した碑林博物館
碑林の入り口
この赤い門の中には、
古今の書の掘られた石碑が
文字通りまるで林の
ように並んでいる。
 今日は、深い霧の中、いよいよ西安に入った。西安とは元の長安で、ここには故人の美しい書を石に刻んだものを集めた、碑林という博物館がある。長安の町が遷都されたとき、唐までの時代の美しい石碑が野に放置された。それを惜しんで一カ所に集めたのが碑林だ。そこには、日本の元号のうち、明治、大正、昭和、平成などの元となった中国の書も収められている。今日は、そのうち、平成があるところをガイドさんに教えてもらった。それは尚書という書物で、文字の上では『地平天成』というのを短くしたのが、平成の起こりだ。
 書にも、色々種類があるが、それが石碑の博物館という場所にそろっているというのは、本当に見応えがあり、およそ3000本という収蔵量には圧倒される。まさに石碑の林という碑林の名前の由来がよくわかった。特に隷書という書体が、奴隷の書であって、昔は身分の低い人たちの使う文字とされ、その読みやすさにも関わらず、国の文字としては認められていなかったという話は興味深かった。
 奥の方の建物で、石碑の拓本を取っていた。紙は中国の特殊な紙の宣紙であり、まず水でしめらせた宣紙を刷毛で丁寧に石碑にの表面に張り付ける。そのとき、刷毛でまんべんなくなでて、石碑の彫ってあるくぼみにもきちんと紙がのびて張り付くようにする。それを今度は団扇で(!)扇いで乾燥させ、乾いたらその上から、墨をしみこませた柄つきの綿ボールを布でくるんだようなもので、墨をつけていく。後は、全体に墨が行き渡り、文字のくぼんだ部分が白く残って、拓本の出来上がりだ。
 書道に興味のある人なら、本当に見飽きないことだろう。また、訪れることがあったら、論語の本を持っていって、論語の石碑を(四書五経はそれと、大学くらいしか知らないので)ゆっくり見たいものだなんて思ったのだった。

"前日"へ   "翌日"へ

ユーラシア大陸横断旅行日程


冒険者の宿 金の割り符亭


ニャーニーズ・アイランド