1996年5月19日(第50日) 西安〜東京 |
日曜日の北京の町の人混みをバスの車窓から見ながら、空港に行き、14時50分のJALで帰国しました。今日は、荷物を完全に詰め直して、帰国することだけが仕事の日でしたから、1日があっと言う間に過ぎました。成田には、友人が迎えに来てくれたので、壮絶な荷物の山とも格闘しなくて済みました。
今、自宅に帰り着いて、色々なことを考えています。
昨日、西安のホテル、唐華賓館での朝食の後、ホテルの二階の渡り廊下を自分の部屋に帰る途中、建物と木々の間に、大雁塔を見つけました。そのとき突然ひどく異境にいる気持ちがしました。果ては、天竺で仏塔やら、異なった風俗の景色に触れた玄奘三蔵も同じように感じただろうかと、そんなことに思いがさまよっていきました。
明日はもう東京に戻り、猫達や家族、友人に囲まれた平和な世界に戻れるという開放感が、その朝から私の心をとても敏感にしてくれているようでした。木々の緑、建物の陰影までが心の中に風を巻き起こしていました。
もしも、今、読んでくださっているあなたが、この50日の旅のつたない日記を心に掛けて読んでくださった方なら、ツアーの内部の事に関する記述、人間模様などが全くと言っていいほど書かれていないことにお気づきだと思います。
それには理由が二つあります。第一に出発前のJTB中国のI氏との「添乗員を含めて、他の参加者のプライバシーに留意する」という約束に、人間として私が忠実でいたかったこと。第二にこの、へんちくりんで、不快なツアーのつまらない人間模様で、せっかくの旅日記をつけるという明るく楽しいはずの計画を汚したくなかったということがあります。
将来、もしも何かよい処理方法を見つけられたら、この人間関係についても、発表するかもしれませんが、帰国して肩の荷を降ろしたばかりの今は、「もうたくさん、思い出すのもイヤ」というのが、正直なところです。と、同時に、何度も途中で帰ろうと思いましたが、結果的に最後まで来てよかったと思っています。
ありきたりの感想ですが、ツアーの楽しさつまらなさは、ツアーの仲間の組合せにも、大きく左右されます。しかも、それは出発してみるまでわからない。これは本当にリスクの大きな賭です。今回はそれが裏目に出ました。なにしろ、私がたまたま英語がしゃべれた為、仲良くなった現地ガイドやスルーガイドのほぼ全員から、「このツアーは雰囲気が変ですね、何かありましたか」と聞かれるほど、妙な雰囲気のツアーだったのです。その度に、「何にもないけれど、みんな個性の強い人ばかりだから」と当たり障りのない返事をしましたけれど。
それは、正確ではないかも知れません。これから書くことは、私が考えることであって、あるいは、思考が足りないかも知れません。結局、全ての参加者が私も含めて自分のわがままに振り回されていたし、その自己主張を通すためにより声高に主張を繰り返しました。
分けても私が一番吃驚したのは、ごく一部の人々をのぞいて、誰も「みんなで仲良く旅をしょう」と言うことを考えていなかったことです。人によっては、自分が楽しくするためには、誰にも負けないで自分を主張するんだと言い切ったおばあさんもいました。何よりも自分の欲求を満足させることだけを考える旅がぶつかり合えば、楽しくなるはずがないのです。
他にも普通では考えられないことがたくさんありました。禁煙のはずのバスの車内で、禁煙を率先して実行すべき添乗員さんがタバコをすったこと。そのために、タバコのアレルギーのある私は、咳が止まらなくなって困りました。その上添乗員さんが、特定のお客と仲良くなって、そのお客が言っていた他の参加者の悪口を当の本人に「あなたはこれだけ嫌われてるんですよ」と言ったり、お客の人間性を云々したり。挙げ句の果てが、「文句があるなら、自分の会社に言いつけたらいい。自分は何枚も始末書を書いているし、そんなこと怖くもなんともない。いつ首になってもいい覚悟で仕事してしるし、自分の生き方に自信があるから、この世に怖いものなどなにもない。第一、言いつけるたって、証拠がないだろう」と、その筋の人みたいにすごまれて、あまり吃驚したのと傷ついたので、二日ほど寝られなかったら、タシュケントで体調を崩したのです。
他にも、つらかったことがあります。二人だけ飛び離れて、年の若かった不思議少女と私には年寄り連中の老婆心といくらかの悪意から出る一言が、大層重いものだったし、不思議少女が途中で帰国してからは、攻撃は私に集中しました。挨拶をしても無視され、当てこすりを言われ、あまりに珍しくて目がまん丸になりっぱなしでした。
もし、この旅行記を読んでくださったあなたが、JTBのこのツアーに参加しようと思っているなら、私はこうアドバイスしたいです。「50日、どんなに孤独でも旅を楽しめる強さがあるなら、きっといい旅になるでしょう、どうぞ楽しんできてください」と。
私自身は、仏様に何回も助けていただいて、心を救われたから、何とか旅が続けられましたけれど、元来とっても弱く寂しがりやな人間なので、とにかく、50日閉塞した人間関係の中で、一人だけ毎日原稿を書くという仕事を持っての旅が、それはそれはきつかった。だからもし、旅費を全額出して、日当もくれて、お小遣いもくれて、猫の面倒も見てくれるという話が転がり込んできても、私はもう一度、この恐ろしい旅に参加する気にはなれそうにもないです。
それから、最後になりますが、タシュケントから、交代の添乗員さんに連れられて帰国した不思議少女繭子は、すっかり元気になり、また、中国に出かける旅をあれこれ選んでいるようです。ご心配かけましたと、かわいい声で笑っていました。帰国した便がチャーター機で、関西国際空港についたそうで、関空で一泊して羽田に飛び、羽田からお父さんの車で病院に行き、そのまま入院したそうです。当時私たちが聞かされていた病状よりずいぶん重かったようで、それもまた、とても大変だったのだと思います。近いうちにあえると思いますので、楽しみです。
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