3.ドライドック


    
ドライドック
1号ドライドック
拡大写真 263K

 横須賀基地内には、現在も使うことのできるドライドックが3つある。ドライドックとは、船の建造や修理などを行う施設である。海とつながったU字型の石組みの構築物で、水を満たしてから海とつながるゲートを開け、艦船を引き込んで、その後ゲートを閉めてドック内の水をポンプで揚水して抜く。そして、ドックのそこの石組みに船の竜骨(船の底にある、背骨のようなもの)を載せたような形で、船を安定させて、日頃は水中にある船底部分の修理や改造を行うものだ。第一号ドライドックは日本で最初に建設されたドライドックで、慶応3年(1867)に着工され明治4年(1871)年に完成している。これは、軍事施設と言うより、むしろ、近代的な施設であったといえる。なぜなら、日本沿岸を離れて航行する大型船舶にとって、大変有益な施設だったからである。維持費などは莫大にかかったが、その効用の大きさも見過ごすことはできない。
 付帯設備としては、ガントリークレーン、スチームハンマーなどがあった。ガントリークレーンは近年取り壊されたが、スチームハンマーは横須賀基地の艦船修理部で、幕末にフランスから輸入された6機のうち2機が平成9年まで稼働していた。(現在 横須賀人文博物館に展示されている)このスチームハンマーは、蒸気の力で持ち上げたハンマーを落下させることで重力を利用し金属を加工するもの。現在では本国のオランダにも残っていない。

ミニコラム 横須賀港について
 横須賀港は、横須賀製鉄所を中心として発展した港である。慶応元年(1865)徳川幕府はフランス人技師ヴェルニーを招聘し、勘定奉行であった小栗上野介と共に、近代的な製鉄工場の建設を目指した。名前こそ製鉄所だが、その真の姿は造船所兼機械の製作・修理工場だった。幕末に開国した日本にとって、列強と互するためには、海軍力の増強は急務だったのだ。
 候補地の選定に当たって、当時の物資の輸送は陸路ではなく、船での輸送が大きな部分を占めていて、その意味では大型船の出入りのできる大きな湾のある横須賀は立地が良かったといえる。測量の結果、建設用地としては水深も深く、ヴェルニーの故国フランスの良港ツーロンに地形も似ていたことから、ここが選ばれた。
 ヴェルニー来日から6年目、横須賀製鉄所は明治政府に移管され、名称も横須賀造船所となった。ヴェルニーはその後も施設の拡充に努め、来日から11年目の1876年に帰国した。
 横須賀造船所は、明治の終わり頃からの日本の軍拡にともない、軍艦の製造・修理を行うようになり、明治36(1903)には、「横須賀海軍工廠」と改称され、軍艦はもちろん水雷艇の建造も行われた。この横須賀海軍工廠は第二次世界大戦が終結した昭和20年まで、次第に規模を拡大しつつ存続した。

前へ   次へ

米海軍横須賀基地見聞記 目次


新聞社 ニャーニーズ・タイムス


ニャーニーズ・アイランド