6.艦船修理部


    
艦船修理部
艦船修理部の角から
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 艦船修理部には2000人が働いていてい、そのうち1800人が日本人だという。この艦船修理部は、昭和26年に創設され、朝鮮戦争の時は、ここは大活躍だったという。現在では西太平洋(耳慣れない言葉だが、日本は確かに太平洋の西にある。)で一番大きな艦船修理工場である。ここでは、ほとんどありとあらゆる艦船の修理がおこなわれており、米海軍の中でも、ここの技術レベルはトップレベルであると、評価が高いそうである。それは働いている日本人の技術に負うところが多いという。第二次世界大戦後、技術で立国してきた日本人の面目躍如と言うところだろうか。
 横須賀造船所の時代から、ずっと使われてきたというスチームハンマーもここにあった。言いかえれば、それほど大きなものの修理もするということだろうか。工場のフェンスに沿って歩いていたとき、フェンスの向こうになにやら見たことのある大きな櫛のようなものがあった。とろねこに「あれ、なんだっけ?どこかで見たことあるんだけど」と聞くと、とろねこはくすくす笑いながら、「あれは、船の上についてるレーダーのアンテナでしょう。地面にじかに置いてあるからイメージしにくいんだと思うけれど」と答えてくれた。なるほど、それである。
 よくよく考えてみれば当たり前のことだけれど、形あるものは必ず壊れるわけで、大きな軍艦であっても、修理は必ず必要なのだ。そういう意味でも、きちんとしたベースとなる港を持つことは、大切なことなのだ。人間だって、心の中に帰れる港を持っている方がずっと生きて行きやすかったりするじゃないか。そういう意味で、米海軍にとって、この横須賀は、安心して帰れる港なのだろう。

ミニコラム 泊船庵と夢窓国師
記念の石碑
泊船庵の記念碑
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 仏教界の偉大な存在である夢窓国師が、関東に招かれ、当時鎌倉幕府のあった鎌倉から移ってきて庵を結んだのがここ。庵の名前は泊船庵。夢窓国師はここに来て3年目の1321年、庵の背後の山に三重の塔をたて、「海印浮図」と額を掲げたという。これは、その塔を以て沖をいく船の目印とし、海に落ちる塔の影に魚が寄るようにすることで、結縁を得させようとする思いやりで建設されたものと言われている。
 この石碑自体は、ドライドックから艦船修理部の横を通り、キティホークが係留されているところへ向かう途中の右側にあった。この石碑を訪れる前に、関東大震災の犠牲者の慰霊塔にも立ち寄ったが、とにかく、通常の空間に当たり前のように歴史的遺物が存在している。それだけに、基地の中の人たちも、かえって基地の歴史などや遺物について興味を持つことがないようで、私たちのパーティにも基地の中からの参加者がいた。それだけに、かえって遺物が無事に残されているような気もしたが、私はあることを思い出した。
 昔、都心で仕事をしていたころ、会社の直ぐ近くに、赤穂浪士の関連の石碑が建っていた。毎日その前を通勤しながら、私はまったくその石碑に気がつかず、あるときふとした拍子に初めてその石碑の存在を認識したのだった。人々にとって、歴史だの遺物だのというものは、もしかしたら、存在を認識し知覚して初めて意味を持つものなのかもしれない。それは、ある意味では他の多くのものと同じだけれど、人類の歴史は、意識をきちんと持って認識し、知覚し続けなければならない、本当に大切なものなのではないだろうか。歴史や記憶の中には、忘れてしまいたいものもたくさんあるのは確かだけれど。

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米海軍横須賀基地見聞記 目次


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