太宰治の作品 おすすめ



右大臣実朝 燈 籠 新ハムレット 饗応夫人 惜 別 眉 山 女の決闘 親友交歓

 右大臣実朝 昭和18年(1943年) 新潮文庫『惜別』収載
 
     承元二年戊辰。二月小。三日、癸卯、晴、鶴岳宮の御神楽例の如し、将軍家御疱瘡に依りて御出無し、前大膳大夫広
     元朝臣御使として神拝す、又御台所御参宮。十日、庚戌、将軍家御疱瘡、頗る心神を悩ましめ給ふ、之に依って近国
     の御家人等群参す。廿九日、己巳、雨降る、将軍家御平癒の間、御沐浴有り。(吾妻鏡。以下同断)
  おたずねの鎌倉大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避けてありのまま、あなたにお
 知らせ申し上げます。間違いのないよう、出来るだけ気をつけてお話申し上げるつもりではございますが、それでも万一、年
 代の記憶違い或いはお人のお名前など失念いたして居るような事があるかも知れませぬが、それは私の人並はずれて頭の悪い
 ところと軽くお笑いになって、どうか、お見のがし下さいまし。

 
  ○私は太宰治の名作の一つと思う長編です。太宰治は『HUMAN LOST』で「実朝をわすれず。」と、『鉄面皮』で「いのち
   あらば、あの実朝を書いてみたいと思っていた。」と書いており、実朝を書く事は念願だったのです。 
   実朝に仕えていた「私」が回想するという形をとっており、太宰治が得意とした独白形式で物語は書かれていきますが、
   「吾妻鏡」本文が挿入され、重厚さを増しているとともに、実朝の言葉は「平家ハ、アカルイ」のようにカタカナで表さ
   れていることから、その尊さ、常人との隔絶が見事に表現されています。


 燈 籠 昭和12年(1937年) 新潮文庫『きりぎりす』収載
 
  言えば言うほど、人は私を信じて呉れません。逢うひと、逢うひと、みんな私を警戒いたします。ただ、なつかしく、顔を
 見たくて訪ねていっても、なにしに来たというような目つきでもって迎えて呉れます。たまらない思いでございます。
  もう、どこへも行きたくなくなりました。すぐちかくのお湯屋へ行くのにも、きっと日暮れをえらんでまいります。誰にも
 顔を見られたくないのです。ま夏のじぶんには、それでも、夕闇の中に私のゆかたが白く浮かんで、おそろしく目立つような
 気がして、死ぬるほど当惑いたしました。きのう、きょう、めっきり涼しくなって、そろそろセルの季節にはいりましたから
 早速、黒地の単衣に着換えるつもりでございます。こんな身の上のままに秋も過ぎ、冬も過ぎ、春も過ぎ、またぞろ夏がやっ
 て来て、ふたたび白地のゆかたを着て歩かなければならないとしたなら、それは、あんまりのことでございます。せめて来年
 の夏までには、この朝顔の模様のゆかたを臆することなく着て歩ける身分になっていたい、縁日の人ごみの中を薄化粧して歩
 いてみたい、そのときのよろこびを思うと、いまから、もう胸がときめきいたします。
  盗みをいたしました。それにちがいはございませぬ。いいことをしたとは思いませぬ。けれども、――いいえ、はじめから
 申しあげます。私は、神様にむかって申しあげるのだ。私は、人を頼らない。私の話を信じられる人は、信じるがいい。

 
  ○太宰治の評論家の第一人者である奥野健男氏は、この作品を太宰治の前期として位置づけていますが、太宰治がもっとも
   得意とした「女性独白体」で書かれた一番最初の作品であること、また『二十世紀旗手』や『HUMAN LOST』などの作品
   のように錯綜しておらず、小説の体をなしている事を考えれば、この作品から太宰治の中期が始まったと考えるのが妥当
   ではないでしょうか。書き出しは中期の名作と名高い『駈込み訴え』を思い出させます。


 新ハムレット 昭和16年(1941年) 新潮文庫『新ハムレット』収載
 
  こんなものが出来ました、というより他に仕様が無い。ただ、読者にお断りして置きたいのは、この作品が、沙翁の「ハム
 レット」の注釈書でもなし、または、新解釈の書でも決してないという事である。これは、やはり作者の勝手な、創造の遊戯
 に過ぎないのである。人の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の「ハムレット」から拝借して、一つの不幸な家庭を書い
 た。それ以上の、学問的、または政治的な意味は、みじんも無い。狭い、心理の実験である。
  過去の或る時代に於ける、一群の青年の、典型を書いた、とは言えるかも知れない。その、始末に困る青年をめぐって、一
 家庭の、(厳密に言えば、二家庭の、)たった三日間の出来事を書いたのである。いちどお読みになっただけでは、見落とし
 易い心理の経緯もあるように、思われるのだが、そんな、二度も三度も読むひまなんか無いよ、と言われると、それっきりで
 ある。おひまのある読者だけ、なるべくなら再読してみて下さい。また、ひまで困るというような読者は、此の機会に、もう
 いちど、沙翁の「ハムレット」を読み返し、此の「新ハムレット」と比較してみると、なお、面白い発見をするかも知れな
 い。
 
  ○初めての書き下ろし長編で、太宰治の作品の中でもっとも評価が分かれており、板垣直子氏にあっては「太宰氏の最もつ
   まらぬ作品よりももっとつまらぬもの」と酷評しています。書き出しからも分かるとおり、太宰治もこの作品の出来に関
   しては今一だと思ったのではないでしょうか。
   私は原作であるシェイクスピアの『ハムレット』を読んだ事がないので、比較は出来ませんが、『ハムレット』ってこん
   なに面白いのかと思いました。ポローニヤスのレヤチーズに対する説教は思わず笑ってしまうほどですし、ハムレットの
   「信じられない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける。」という最後のセリフは印象的です。


 饗応夫人 昭和23年(1948年) 新潮文庫『グッド・バイ』収載
 
  奥さまは、もとからお客に何かと世話を焼き、ごちそうするのが好きな方でしたが、いいえ、でも、奥さまの場合、お客を
 すきというよりは、お客におびえている、とでも言いたいくらいで、玄関のベルが鳴り、まず私が取次ぎに出まして、それか
 らお客のお名前を告げに奥さまのお部屋へまいりますと、奥さまはもう既に、鷲の羽音を聞いて飛び立つ一瞬前の小鳥のよう
 な感じの異様に緊張の顔つきをしていらして、おくれ毛を掻き上げ襟もとを直し腰を浮かせて私の話を半分も聞かぬうちに立
 って廊下に出て小走りに走って、玄関に行き、たちまち、泣くような笑うような笛の音に似た不思議な声を挙げてお客を迎え
 それからはもう錯乱したひとみたいに眼つきをかえて、客間とお勝手のあいだを走り狂い、お鍋をひっくりかえしたりお皿を
 わったり、すみませんねえ、すみませんねえ、と女中の私におわびを言い、そうしてお客のお帰りなった後は、呆然として客
 間にひとりでぐったり横坐りに坐ったまま、後片づけも何もなさらず、たまには、涙ぐんでいる事さえありました。

 
  ○読んでいて最後の方は「早く逃げろ」とイライラしてくる作品です。もっともそう思った瞬間に太宰治の術中にはまった
   と言えます。主人公の奥さまにはモデルがいるようですが、客が来てもイヤと言えないのは、太宰治自身を投影させたの
   ではないでしょうか。


 惜 別 昭和20年(1945年) 新潮文庫『惜別』収載
 
   これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。
  先日、この地方の新聞社の記者だと称する不精髭をはやした顔色のわるい中年の男がやって来て、あなたは今の東北帝大医
 学部の前身の仙台医専を卒業したお方と聞いているが、それに違いないか、問う。そのとおりだ、と私は答えた。
 「明治三十七年の入学ではなかったかしら。」と記者は、胸のポケットから小さい手帖を出しながら、せっかちに尋ねる。
 「たしか、その頃と記憶しています。」私は、記者のへんに落ちつかない態度に不安を感じた。はっきり言えば、私にはこの
 新聞記者との対談が、終始あまり愉快でなかったのである。
 「そいつあ、よかった。」記者は蒼黒い頬に薄笑いを浮かべて、「それじゃ、あなたは、たしかにこの人を知っている筈
 だ。」と呆れるくらいに強く、きめつけるような口調で言い、手帖をひらいて私の鼻先に突き出した。ひらかれたペエジには
 鉛筆で大きく、
 周樹人
 と書かれてある。

 
  ○「文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ」書かれた作品です。
   中国の文豪魯迅(周樹人)が仙台に留学していた頃の話を、同級生が回想するという形で書かれています。
   太宰治の他の作品とは違った印象を受ける作品だと思います。亀井勝一郎氏は「淡々として、しかも骨格ががっちりして
   いる。太宰文学の中でも、最も端正な作品」と非常に高く評価しています。


 眉 山 昭和23年(1948年) 新潮文庫『グッド・バイ』収載
 
  これは、れいの飲食店閉鎖の命令が、未だ発せられない前のお話である。
  新宿辺も、こんどの戦火で、ずいぶん焼けたけれども、それこそ、ごたぶんにもれず最も早く復興したのは、飲み食いをす
 る家であった。帝都座の裏の若松屋という、バラックではないが急ごしらえの二階建の家も、その一つであった。
 「若松屋も、眉山がいなけりゃいいんだけど。」
 「イグザクトリイ。あいつは、うるさい。フウルというものだ。」
  そう言いながらも僕たちは、三日に一度はその若松屋に行き、そこの二階の六畳で、ぶっ倒れるまで飲み、そうして遂に雑
 魚寝という事になる。僕たちはその家では、特別にわがままが利いた。何もお金を持たずに行って、後払いという自由も出来
 た。その理由を簡単に言えば、三鷹の僕の家のすぐ近くに、やはり若松屋というさかなやがあって、そこのおやじが昔から僕
 と飲み友達でもあり、また僕の家の者たちとも親しくしていて、そいつが、「行ってごらんなさい、私の姉が新宿に新しく店
 を出しました。以前は築地でやっていたのですがね。あなたの事は、まえから姉に言っていたのです。泊って来たってかまや
 しません。」

 
  ○太宰治が『如是我聞』で否定したはずの「どんでん返し」のある作品です。
   テンポが良くてスッキリとした短編ですが、読者の心に何か印象を残します、
   某誌の昭和の名短編100に太宰治の作品から選ばれた唯一の作品です。


 女の決闘 昭和15年(1940年) 新潮文庫『新ハムレット』収載
 
  一回十五枚ずつで、六回だけ、私がやってみることにします。こんなのは、どうだろうかと思っている。たとえば、ここに
 鴎外の全集があります。勿論、よそから借りて来たものである。私には、蔵書なんて、ありやしない。私は、世の学問という
 ものを軽蔑して居ります。たいてい、たかが知れている。ことに可笑しいのは、全く無学文盲の徒に限って、この世の学問に
 あこがれ、「あの、鴎外先生のおっしゃいますることには、」などと、おちょぼ口して、いつ鴎外から弟子のゆるしを得たの
 か、先生、先生を連発し、「勉強いたして居ります。」と殊勝らしく、眼を伏せて、おそろしく自己を高尚に装い切ったと信
 じ込んで、澄ましている風景のなかなかに多く見受けられることである。あさましく、かえって鴎外のほうがまごついて、赤
 面するにちがいない。勉強いたして居ります。というのは商人の使う言葉である。安く売る、という意味で、商人がもっぱら
 この言葉を使用しているようである。なお、いまでは、役者も使うようになっている。曾我廼家五郎とか、また何とかいう映
 画女優どが、よくそんな言葉を使っている。

 
  ○森鴎外が翻訳したドイツの作家ヘルベルト・オイレンベルグの作品を分析し、原作にはないものを加えて全くと言って良
   いほど別な小説にしてます。太宰治の小説の書き方みたいなものが多少なりとも理解出来るのではないでしょうか。
   最後の方では、太宰治が書いているのか、書き手が書いているのか、わからなくなっており、それに引き込まれます。
   太宰治の創作のうまさ、小説作りの巧みさがわかる作品と言えると思います。


 親友交歓 昭和21年(1946年) 新潮文庫『ヴィヨンの妻』収載
 
  昭和二十一年の九月のはじめに、私は、或る男の訪問を受けた。
  この事件は、ほとんど全く、ロマンチックではないし、また、いっこうにジャアナリスチックでも無いのであるが、しかし
 私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡を残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件な
 のである。
  事件。
  しかし、やっぱり、事件といっては大袈裟かもしれない。私は或る男と二人で酒を飲み、別段、喧嘩も何も無く、そうして
 少くとも外見に於いては和気藹々裡に別れたというだけの出来事なのである。それでも、私にはどうしても、ゆるがせに出来
 ぬ重大事のような気がしてならぬのである。
  とにかくそれは、見事な男であった。あっぱれな奴であった。好いところが一つもみじんも無かった。

 
  ○この作品は、誰でも一回読めばきっと忘れる事の出来ない作品になると思います。
   ラストが非常に面白いのですが、あまり書くと読んでいない人は、読んだ時に面白さが半減するような気がしますので、
   余計なコメントはしません。是非一読してみてください。


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